深センものがたり 第1回

2018/07/03

 

変貌の街

羅湖村

羅湖村

1989年から深センの移り変わりを見てきた。「深センってどんな所?」、の答えが時代と共に異なる。街が常に変化しているからだ。
・90年前半、駅周辺は粉塵舞う騒音の地、少し行くと水牛が歩く田舎道
・90 年後半、地方から農民が出稼ぎにくるところ
・2000年頃、急速に発展したカオスの街は富豪が多く、スリや強盗だらけ
・2010年頃、香港や上海と競う都市、平均収入が中国一
・最近、世界に誇るイノベーション都市

 

 

 

 

 

会展中心

会展中心

と答えている。深センは 中国経済発展のモデル都市。とんでもないスピードで動いている。誰がこの街の変化を創造しているか、まちがいない!それはここへ集まる人々である。

 

 

 

 

 

深南大道

深南大道

老街

老街

ここは大阪や

ここは大阪や1 ここは大阪や2 青春を大阪で過ごした筆者が2001年から深センの雑居街のアパートに住み、”大阪と同じニオイや“と感じた。朝は「今から仕事か?」、夜は「メシ食うたか?」と、大家や住人が声掛ける。メシ屋のオヤジは、「おう!」しか言わないが、「まいど!」の感覚だ。ケガで脚を引きずり歩いていると、「どうしたぁ?」、「病院教えたろか?」と心配してくれた。近くに日系スーパーができた時に、「日本製炊 飯器売ってるか?故郷の土産にするねん」、とか「店員は中国語通じるか?」 とか、※ボケをかまされたものだ。いささかおせっかいな庶民だったが、当時は人情味溢れる”大阪風の下町やった“。
※ボケをかまされたとは、漫才でいう「ぼけたことを言われた」の意味。反対語は”つっこまれた“。

 

若者の街へ
若者の街へ2 年月を経て、中国の各地から純粋な若者が大挙して押し寄せ、職を得て、努力し励んで、更にレベルの高い職を得たり、独立したり、成功を夢見て頑張っている。海外留学の帰国組や帰国子女も増えた。深センは優秀な若者が育つ環境に満ち溢れている。世界が注目するイノベーション都市を創造しているのは彼ら彼女らである。若者の街へ1だが、みんな忙しいのであろう。仕事が終わって仲間と食事する機会も減っているらしい。人情味も薄れていくのだろうか。

 

出会いと別れ
 筆者の知る日本人の多くは、このうえなくこの街を気に入っている。今まで数多くの出会いと別れに遭遇してきたが、いつかこの街に戻りたいと望む人は多かった。一昔前、駐在仲間の帰任送別カラオケで、諸先輩方が肩を抱き合い、涙を流しながら、名曲「※朋友」を熱唱する光景は胸にしみたものだ。
※「朋友」とは、カラオケの締めで歌われる中国の曲。日本では「そっとおやすみ(布施明)」かな。いささか古い話題で恐縮する。

最近の話し、「10 年ぶりに深センへ 戻ってきたぜ」、「えーっ !?〇〇さん、生きてたの?」、知人との再会で胸をなでおろした。
ところで、なぜこの街を気に入っているのか、誰に聞いてもわからないのが不思議である。

出会いと別れ2

出会いと別れ1

 

 

 

 

 

 

このコラムでは、深センの街を筆者の視線で見つめ、外から見るだけではわからないこの街の心髄を、人や出来事を通してお伝えしていく。

 


 

宮城 紀生

深セン在住15年のベテランコンサルタント
宮城 紀生
miyagi@waya.net.cn

 

 

 

WAYA

深セン華日(ワーヤ)コンサルティング
会社設立・運営、法律相談、会計財務税務
深圳市福田区深南大道6021喜年中心A610

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