深センものがたり 第27回

2020/09/30

waya title〜 深センの歴史 〜

深セン鎮人民政府

 1949年10月1日、中華人民共和国が誕生した。同月19日、深セン最初の行政機構である”深セン鎮人民政府“が成立。その日の夜、布吉から羅湖に入った人民解放軍は、民楽劇場で深センの各界の人たちに盛大な歓迎を受け、深セン鎮の正式解放を宣言した。

 1953年、広深鉄道や幹線道路の拡充により深センの人口は大幅に増える。本格的に商工業が発展し、都市としての土台ができあがっていった。1958年、恵陽県(現在の恵州)の龍崗、横崗、坪山、大鵬、葵沙、南平などが宝安県の管轄に組み込まれた。これらの地域は、現在の深セン市龍崗区東部、坪山区、大鵬新区北部となる。現在に至る地域の境界線である。

 

 

1949年10月深セン鎮

1949年10月深セン鎮

1959年水庫(水源地)工事。 将来、水の豊富な深センへの礎。

1959年水庫(水源地)工事。
将来、水の豊富な深センへの礎。

 

深セン経済特区

 1979年、宝安県が深セン市に昇格された。1980年8月26日、国家が唱える改革開放路線により、深センは中国初の”経済特区“となる。経済特区の範囲は、羅湖、福田、南山、塩田の4区。その後の深センは世界でも異例のスピードで経済発展してゆくことになる。隣接する大都市香港が存在したことも大きな要因である。

 同年11月、タイの正大集団が、改革開放後初の中国における外国企業として進出を果たす。1980年、南山の蛇口が開港。中国の商品が世界に向けて飛び立つ対外貿易港のスタートだ。当時の深セン羅芳村の一人当たりの年収は134元。対岸の香港新界羅芳村は一人当たりの年収が13000元(約100倍)。川を挟んだわずか100mの距離しか離れていない地域の収入格差である。それが30年後の2010年、深センの羅芳村は繁栄を続け、収入も香港羅芳村をはるかに超えてしまった

 

1980南海酒店

1980年、東門広場と蛇口南海酒店

1980年、東門広場と蛇口南海酒店

1981年、深南大道

1981年、深南大道

 

羅湖駅と深南大道

 更経済特区発展のペースに合わせ、1983年、玄関口の羅湖駅は大幅な改造工事に着手。香港側と中国側のイミグレ(交通楼)を結ぶ歩道橋やエスカレーターを設置。1911年に生まれた辺境の小さな駅は、近代的な国家の改革開放の象徴となった。

 

羅湖駅、左1980年、右1991年

羅湖駅、左1980年、右1991年

 

 1983年、深セン大学が開講。1988年、賽格電子部品市場がオープン(モデルは東京秋葉原)。この電気街はその後大きく成長し、深センの象徴となる。台湾の鴻海科技集団(フォックスコン)が深センに進出したのもこの頃である。

 

1983年、華強北

1983年、華強北

1984年、蛇口三洋電機

1984年、蛇口三洋電機

 

 1987年1月27日、深圳市街地中心を東西に横断する幹線道路の”深南大道“が全面開通。

 

1987年、深南大道

1987年、深南大道

 

 1988年11月、皇崗イミグレが対外開放され、翌年1989年11月、筆者が深センへ初上陸した。バスで深南大道を走っている時、道路を水牛の群れが歩いているのを見た。とても不思議な光景であり、今でも瞼に焼き付いている。まさか、近い将来にこの地で生活することになるとは、夢にも考えてなかった、はずだと思う…。

 当時は、製造業、交易センター、歓楽街が主力産業であった。中国の工場と外国企業が提携し、原材料や設備はすべて企業が持ち込み、中国側は労働者を提供するシステムだった。

 全世界に影響を及ぼす最大の国際イノベーション都市への本格的な助走時代である

 


宮城 紀生深セン在住19年のベテランコンサルタント
宮城 紀生
miyagi@waya.net.cn
 
 
 
 
 
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