広州発展の礎を築いた「沙面島」広州

2015/02/10

せわしない広州の中にあって異なる時間が流れるように感じる「沙面島」。趣きのある洋館が残り南国の老木が佇む。
この小さな島だけに漂う閑静で文化的な雰囲気にふれて思う…。この島はこれまで何を見てきたのだろうか?
もともと陸地だった場所を切り離してわざわざ島を作ったのはなぜなのだろう…?
広州発展の礎を築いたともいえる沙面島の物語が始まる。現在の沙面島を紹介しながら、往時に思いを馳せてみる。

【沙面島の歴史】

清の時代、広州は外国との貿易が許された唯一の港として発展した。時代は少々異なれど、鎖国時に唯一開かれていた場所という意味では、長崎・出島と相通じるものがある(資料参照)。当時、外国の公館などの設置は広州にしか認めらていなかった。そのため、清は外国人の保護・隔離を目的として、この地に外国人居住区を設置した。その後、第一次アヘン戦争、第二次アヘン戦争(アロー戦争)を経て、戦勝国となったイギリスとフランスの租界地に定められた。英仏両国は珠江の堆積地だった場所を埋め立て、さらに運河開削によって島を作った。以後「沙面」と呼ばれるようになる。欧米の権益を守る要塞の役割を果たすためには陸から切り離した「島」という形が望ましかったに違いない。当時、島の西方5分の4がイギリス、残りがフランスの租界として設定された。彼らがこの地を選んだのには理由がある。まずは広州が中国における唯一の貿易港であったという背景、そして広州市内を流れる珠江の港が天然の良港として評価されたからだ。

時代は流れ1930年代、反英運動に面したイギリスは多くの租界を手放したが、天津とここ沙面だけは維持し続けた。さて、ここで日本も登場する。太平洋戦争勃発を境に日本軍が英租界を接収管理、沙面では行政権を中国に移管した上で現地日本軍特務機関が監督するするようになった。こうした出来事を経て、1943年、租界はようやく中国に完全返還されることになり、80年余りにわたった沙面租界は姿を消した。

【島の様子と建築群】

島の築造と同時に、道路が建設され12区画に分割された。そのため、道と緑地が島の大部分を占めるようになった。20世紀初頭までには、沙面租界の公共施設はほぼ完備され、領事館、教会堂、銀行、郵便局、電信局、商社、病院、ホテル、住宅などの建築、クラブ、バー、テニスコート、プールなどのレジャー施設も造られた。主に各国領事館、銀行、商社の役員と外国の税務官や宣教師に利用されたといわれている。租界当時は「イギリス橋」「フランス橋」と称された2本の橋だけが沙面島と岸を結ぶルートだったが、現在ではいくつかの橋が設けられている。租界内は自転車と轎(かご、こし)以外の車両は通行が禁止されている。

現在、沙面島にはヨーロッパ風の建物が150ヶ所以上残され、広州で最も異国情緒に満ちた建築群がある。樹木がうっそうと茂るなか、西洋風デザインの街灯、彫刻、東屋、花壇、木製の椅子、噴水池などがアクセントを添える。島には交通制限が実施されているため、空気も清々しい。生活スタイルやリズムもほかの場所とは違う。道の両側にはカフェ、レストラン、バーなどが並び、街路には上品なテーブルが並べられ、撮影なども行われている。こうした景観を保護するため、1996年に全国重点文物保護単位に指定された。

広州沙面島と長崎出島

 

【蘇聯領事館】
広州に臨時首都があったことを物語る領事館

蘇聯領事館

沙面大街68号にある、かつて旧ソ連領事館であった建物で、1916年に建てられた。レンガ・鉄筋コンクリート三階建ての英国ビクトリアン様式の建物。本館は庭と塀をもち、正面と東西側面各階に通路を備える。背面2階にはバルコニーと別館へ通じるコンクリート製の通路がある。建物の外観は屋根と欄干、胸壁以外は赤レンガ・モルタルで覆われており、ペンキは塗られていない。その赤レンガの色から「西紅楼」と呼ばれていた。

赤レンガ

ソ連領事館は中国激動の近代史を見つめてきた。興味深いエピソードの1つは1949年の出来事だ。内戦のさなか、首都南京を失った中華民国政府は首都機能移転を決定する。1949年2月5日臨時首都が発足、同年10月13日に重慶へ遷都するまで、短期間ではあるが広州が首都としての役割を担った。この変化に伴い広州沙面に置かれていた各国領事館は続々大使館へ昇格した。その中でソ連領事館が最初に領事館から大使館への格上げを決めたという。さらに同年10月1日の中華人民共和国最初の国慶節、この時も、ソ連領事館は最も早く自国の国旗を降ろし、同時に最も早く自国の国旗を掲げた。この光景は、ソ連が真っ先にこの変化を受け入れたこと、新しい中国との関係を築いていくことの意思を強く表すエピソードとして語られている。当時の沙面の変化がいかばかりであったか想像に難くない。沙面・ソ連領事館の国旗降納・掲揚の一件をとってみても国際情勢の変遷をうかがい知ることができる。

【沙面堂】
キリスト教建築―英国聖公会の教会

沙面堂

沙面基督堂とも呼ばれる沙面堂は、1846年に英国国教会(聖公会)が沙面英国租界に建てた教会だ。沙面南街60号、沙面租界の西側に位置する。租界当時は外人専用の教会で中華聖公会港粤教区に所属、英国籍の牧師が牧会してきた。また設立当時から現在に至るまで英語による礼拝が行われている。第二次世界大戦終結後、租界が中国政府に返還さ れ、この教会も中華聖公会華南教区に移管された。しかし、1949年の建国後しばらくして、プロテスタント教会が中国基督教協会(中国国内のプロテスタント教派合同教会)傘下に移る過程で、同教会は政府機関により占有された。その後、1980年代に省基督教両会に返還され、1991年に宗教活動を再開。現在は「広東省基督教沙面会堂」と呼ばれている。百年あまりの歴史をもつ教会建築物としてはたいへん保存状態がよい。見学は無料で、朝と晩には英語、中国語、広東語によるミサが行われる。

【広東外事博物館】
100年前の沙面を写した写真も展示

広東外事博物館

広東外事博物館は、中華民国時代の旧フランス駐広州領事館で、1890年建造の建物。沙面建築群の中でA類文物建築に分類されており、全国重点文物保護単位に指定されている。様式はバロック式2階建。この建物は”命途多舛(不幸な運命)“をたどってきたと紹介されている。過去100年間、外資企業のオフィスとして貸し出され、ホールの一部は理髪店に改造されてしまった。とはいえ、床板には今もなお建造当時のものが使われている。館内には、世界122の友好都市から広東省へ贈られた200点以上の贈り物や重要な外交関連の資料が展示されている。さらに螺旋階段の空間を利用して、100年前の沙面を写した貴重な写真10数点が展示されている。その1枚には辮髪に長衣をまとった洋務通訳の姿が写されている。当時英・仏領事エリアを行き来した通訳たちが清の正装をしていたことを伝える貴重な資料だ。広東外事博物館は無料で一般開放されている。

 

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