殿方 育児あそばせ!第60回「番外編②:神様がくれた時間」
私はなぜ、この原稿を日本で書いているのだろう……
予定ならばとっくに中国に戻り、隔離も終えて職場復帰していた筈なのに……
そもそも、なぜ私が3年近くも日本に一時帰国しなかったかと言えば、2ヶ月も仕事に穴を空ける自信が無いからであり、だからこそ隔離期間が短くなった今回、一時帰国を決意した訳なのだが、ところが何をどうしたことか私は未だ日本にいる。このまま行けば職場復帰まで2ヶ月以上かかるのは確定的なのである。そう、スーパーゼロコロナマンは感染したのだった。
前回も書いたが、私は細心の注意を払っていた。業務で訪問した各事業所、ありがたい事にどこも歓迎してくれたが、会食後、楽しいお店へのお誘いは断腸の思いで全て断った。外食も仕事仲間とだけと決めて、友人たちには日本帰国自体を内緒にした。ばれないようにSNSも一切更新しなかった。本当なら見たかったウルトラマンもトップガンもジュラシックパークも諦めた。サウナで整う事も諦め、特殊なお風呂屋さんも勿論あきらめた。それでもコロナの包囲網がじわじわと迫っているのは感じざるを得ない。身の回りや会った人達がコロナに感染した、という知らせが毎日のようにもたらされていたからである。
幸い私は発熱することも体調不良を起こす事もなく、念の為に2日に一度は抗原検査キットで自らの陰性を確認し、なんとかコロナ危機は切り抜けたと思って、予定通り広州へ戻る為のPCR検査を受けるべく東京へ移動。生まれて始めて鼻に綿棒を突っ込まれた数時間後に、その電話はやってきた。
「松浦さんですかー? 残念ながら陽性でぇす、保健所から電話入りまぁす」
「え? 熱も無いし、元気そのもので、今朝も抗原検査したんですが……」
「でも陽性でぇーす。抗原検査は精度低いんですよね~」
いちいち私をイラつかせる標準語のお姉さん。Siri※1の方がまだ可愛い。
かくして私は立派な無症状感染者となって、中国へ戻るスケジュールは白紙となってしまったのである。 当時の私と言えば頭真っ白。そもそもタイトな一時帰国スケジュールだったのに、いきなり何も予定がなく、かと言って何も出来ない数週間が目の前に現れたのである。その数週間が私に何をもたらしたかと言うと……
それは家族に戻る時間だったのだ。
このエッセイを読んで下さっている方の中にも、現在単身赴任中、あるいは単身赴任のご経験がある方が多くいらっしゃると思う。単身赴任経験のある方は同意していただけると思うが、単身赴任者が残した日本の家には、自分が存在しないもう一つ別の家庭が出来ているのである。空気感や空間。ルールや習慣に時間軸。自分のいない日本には自分の知らない生活が存在している。今回、私は滞在17日間の内、5日間を家族と過ごす予定にしていたが、たかが5日程度だと、私はどちらかと言うと異物なのである。よく言えばイベント的な期間であるかもしれないが、私のいる5日間は家族にとって異質な時間である事は間違いない。
実際私は、油断すると思わず敬語を使ってしまいそうになっていた。それが日を追う毎に家族であることを取り戻していくかのように、空気が変わっていく。特に双極性障害を患い、治療を続けながら浪人して大学受験を目指している娘とは、多くの話をすることが出来た。当初は嫌われたく無い一心で、とっても良いパパを演じていた私が、日に日に普通の親父になっていく時間である。口うるさく思われるかも知れない言葉を吐き、部屋中を響かせる勢いで放屁しても許される、全てがこの世界で唯一の家族だからこそなのだと感じた。
別に拙著に擬えたわけではないだろうが、奇しくも細君が言った「神様がくれた時間やなあ※2」という言葉。仕事に関する事は大変だし、スタッフにも迷惑をかけたが、結果から言うと、コロナもまんざらではない、と思う今日この頃なのである。
次回こそは、長女編が始まる……かな?
※1 Siri 言わずと知れたApple社のスマホiPhoneに搭載されている機能。「Hey Siri、○○やって」と声をかければ、彼女ができることなら何でもやってくれる。時々冷たい返事もするツンデレ系でもある。
※2 神様がくれた 『神様がくれた背番号』(松浦儀実、2010年、楓出版)小説内の「あなたが今年の人間大賞に決まりました。ご褒美になんでも願いを一つだけ叶えてあげましょう」の言葉通り、家族に戻る時間をご褒美にもらえたようである。
松浦儀実
1966年兵庫県生まれ淡路島育ち。2009年に小説「神様がくれた背番号」を上梓、同作は漫画化連載され、日本文芸社よりコミックス全三巻発売中。広州駐在十二年目だが臭豆腐とドリアンは未だに食えない。かつて広州に存在したヘヴィメタルバンド「東京女神」でボーカルを務めるがメンバーの帰任であえなく解散。天命を知らないどころか、惑いっぱなしで、恐らく未だ立ってさえいない55歳、阪神タイガース原理主義者。