花様方言 Vol. 177 <水と油>

2019/11/06

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日本人に「加油」(がんばれ)が通じないように、中華圏では和製漢語の「油断」が通じない。「油」と「断」(斷)の組み合わせからは、油断大敵の「ゆだん」の意味は絶対に出てこない。こういうものがイディオムすなわち慣用句である。
「油断」の由来は仏典の涅槃経だとよく言われる。王が家臣に油の入った鉢を持ったまま歩かせて、もしこぼしたら汝の命を断つと命じた、と載っている。もしこれが本当に「油断」の由来なら、万葉集を由来とした「令和」よりひどい。「断つ」のは家臣の命であり、油ではない。「ゆだん」の漢字はほかにもあって、「油断」は当て字だろうと推測されている。「ゆた」(寛。のんびり、の意味)とか「ゆったり」の変化という説が最も有力である。先日NHKの『ブラタモリ』で別の説を知った。比叡山延暦寺の法灯は最澄のころからずっと燃え続けているそうで、火が消えないよう油を絶やすな、油断するな、という戒めなのだという。最澄の火が事実だとしても、大変失礼だが「油断」の由来だというのはやはり後付けで、語源俗解ではないだろうか。お坊さんの教えを「俗」だとは、言語学とはなんとバチあたりな学問であろう。
同じくNHKの『チコちゃんに叱られる!』では、「旦那」の由来についてやっていた。これはまぎれもなく仏教用語、古代インドのサンスクリットで、「ダーナ」=布施。本来の意味は「与えること」。中国の漢訳仏典で「旦那」や「檀那」と当て字されて、日本で「お布施をする人」をこう呼ぶようになり、それが店の主人や一家のあるじを指すようになった。あなたの旦那もお給料とかいろいろなものを与えてくれるはずだ。NHKではこれ以上掘り下げてくれなかったが、インドヨーロッパ語族という用語があるようにインドとヨーロッパの言語は起源が同じである。だからラテン語「dōnāre」(贈る)やフランス語「donner」(与える)などとも同源で、これが英語に入ったのが「ドナー」(donor)。やはり「与える人」の意味だ。角膜とか肝臓とか骨髄を与えてくれるドナーと、おカネを与えてくれる旦那が同じ起源なのである。
「油」という漢字が表している日中の文化の違いは、油断していると見逃してしまう。「水と油」という言い方があるように、日本人にとって「水」と「油」は相反する概念で、混ざらないものの代表格だ。だがどうだろう、「油」には「水」を表すさんずい「氵」が付いている。これはなぜか。かつて香港には「火水爐」というものが普及していて、これでお湯を沸かし、料理をしていた。この広東語の「火水」に最も近いものを日本語で表すと「灯油」である。こういうものを「火の水、燃える水」ととらえるわけで、漢民族の文化の尺度では「水」は決して「油」の対立概念ではない。油は水のように流れるものであり、じゅうぶん水の一種なのである。だから「油」がさんずいでもまったく矛盾しない。「脂」という字があって、日本語ではこれも「あぶら」だが、「油」との違いはおわかりだろうか。「脂」は豚肉などに付いている、あの白いかたまりだ。液体なら「油」で、個体(もしくはジェル状)なら「脂」。日本語では液体か個体かという形状の違いで「あぶら」を区別しないが、漢語では区別している。「区別」のしかたの違いこそがまさに言語の違いであり、文化の違いだ。余談だが(いつも余談ばかりだが)東野圭吾が有名になるちょっと前、ミステリー界では桐野夏生の『OUT』が国際的に高く評価された。バラバラ事件の話。夫を殺した主婦がパートの仲間たちと共に死体を切り刻む。包丁で肉を裂き、骨を鋸で引いて、まずは首を落とし、手足の関節を外す。黄色い脂肪層が包丁を滑らせ、鋸も脂でぬるぬるになる。あの描写は思い出しただけでぞっとする。くれぐれも旦那はバラバラにしないように。
「油」のつくりの「由」は、おおよそ壺か籠のような入れ物の象形であろうと推測されてきた。白川静博士によると、ひょうたんだという。「由」という記号の持つ意味は、抜け出てくる、通り抜けてくる、といったようなイメージで、熟れたひょうたんからどろっと流れ出てくるような感じの液体が、すなわち「油」だ。由来、由緒、由縁、経由、なども、どこかから出てくる、通ってくる、ということを表している。(「由」だけでも「あぶら」を指したが、のちに「氵」が付いた。)抽選、抽出、抽象、などの「抽」は「手」で抜き取る、引き出す。「軸」は車輪の間を突き通している棒。宇宙の「宙」は「宀」(家)の中がからっぽに抜けている様子で、何もないこと。「笛」は中が空洞で息が通り抜けていく。「袖」は服を着るとき手を通す。と、だいたいこんな感じだ。近年の漢字蘊蓄本の類は大半が白川博士の説で作られている。いわく、「道」は切り落とした敵の「首」を持って「辶」(みち)を行く様子、「方」は死体をつるし首にした象形、「白」は白骨化した頭蓋骨…と、こういった路線になる。どうです、売れそうでしょ。漢字のできた時代というのは、魔除けのために生首を持って歩いたり、国境の守りのために柵に死体をぶら下げたり、といったような呪術が幅をきかすオカルト風味の時代だった。死体の解体など日常茶飯事だったろうし、だから「脂」がにくづき「月」(肉)で、体内にあることをちゃんと知っていた。
ブルース・リーの有名な言葉に「Be water, my friends!」というのがある。水の如く、決まった形を持たず、柔軟に、融通性を持て、ということだ。いわく「心をから水油にしろ。水はコップに入れればコップの形に、瓶に入れれば瓶の形に、ティーポットに入れればティーポットの形になる。水は流れて、”crash”する。水になれ、我が友よ!」水の持つこの流動性は油でも同じである。彼には「Be oil.」のほうが似合うかもしれない。『燃えよドラゴン』。

大沢ぴかぴ

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