花様方言 Vol.184 <しんこく くすりぶそく>

2020/02/26

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 横浜港で待機を余儀なくされたダイヤモンド・プリンセス号。デッキに掛けられた旗に、こう書いてあった。「くすり ふそく」。その後、「しんこく」と書き足され、「くすりぶそく」と濁点が打たれた。さらに次々と書き足されていって、ごちゃごちゃして何が書いてあるのか判別できなくなった。はじめの「しんこく くすりぶそく」はシンプルで実によかった。薬不足が深刻である旨、率直に外部に伝わった。

 かな書きにすると日本語の真の姿がいろいろと見えてくる。「くすり ふそく」というのは、助詞などを一切省いて名詞だけを並べたもの。安全第一、とか、面会謝絶、熊出没危険、のようなスタイルだ。一方、アップデートされたバージョンの「くすりぶそく」は複合名詞である。水不足、人手不足、資金不足、過不足、「ふそく」はほかの語とくっついて一つの語を作るとき、「ふ」が濁音になって「~ぶそく」となる。連濁(れんだく)という現象である。漢字で書くと「不」で変わりないが、かな書きだと日本語での実際の発音が表される。江戸時代前期には、なんと漢字にも濁点を打つことがあった。手書きでないと容易に実現できないが、ためしに「不」に「゛」をつけてみると、一応こうなる。不゛。

 「手で書(か)く」を名詞形にして複合語にしたのが「手書(が)き」で、やはり連濁が起こる。日本人はこういう操作を無意識のうちに、何の苦もなくやってのけている。手紙(がみ)、折り紙(がみ)、押し花(ばな)、草花(ばな)、夜桜(ざくら)、夜空(ぞら)、石橋(ばし)、日本橋(ばし)、日本猿(ざる)、銀蠅(ばえ)、ショウジョウバエ、インスタ映え(ばえ)。もし日本語に連濁がなかったら、見ざる、聞かざる、言わざる、の三猿(さんざる)は存在しなかった。連濁は万葉集の時代にはすでにあった。宇良我奈之(うらがなし=心悲し)。年季の入り方が、半端ない。「不」は和語ではなく漢語だが、漢語でも平安時代後期にはもう連濁が起こっていた。人間(げん)、長者(じゃ)、心中(ぢゅう>じゅう)、これらも古代中国語に起源を持たず、日本で独自に濁音化したものである。鎌倉時代の徒然草にはこう書いてある。「行法の法の字を澄みていふはわろし。濁りていふ」。当時「行法」は「ぎょうぼう」であり、「ぎょうほう」と澄んで言ったらNGだったのだ。今なら、株式会社(がいしゃ)、夫婦喧嘩(げんか)などがあるが、室町時代には、両方(りょうぼう)、養子(ようじ)、洗濯(せんだく)なども連濁していた。さすがにこれらは今の時代に濁って言ったら、わろし(NG)。安土桃山時代には、雨合羽(ガッパ)、いろは歌留多(ガルタ)、なんとポルトガル語も連濁した。

P09 Godaigo_729 「くすり ふそく」という2語連続を東京アクセントで読むと、○●● ○●●(低高高 低高高)となる。「薬」も「不足」も平板型アクセントだ。ところが「くすりぶそく」という複合名詞になると、○●●-●○○とアクセントが変わる。アクセントの山(高く言うところ)は一つの単語につき一つ、という法則があるので、○●●○●●ならば二つの単語、それが○●●●○○になれば、これはもう一つの単語になったのだと、無意識のうちに脳が判断してくれる。連濁とアクセント、二重の接着剤によって「くすり」と「ふそく」は結び付けられている。(雨ガッパは「あめ → あま」という形態変化もあり、三重の接着剤である。)こういう高度な作業を、頼みもしないのに脳は勝手に行なってくれている。近畿アクセントでも同じである。京都アクセントでは「くすり」は○●○、「ふそく」は●●●。で、「くすりぶそく」は○○○●○○。同じタイプの「畑仕事」なども同様に、はたけ○●○ + しごと●●● = ○○○●○○である(ただし「しごと」は、はたけじごと、と連濁しない)。近畿アクセントの複合語の法則の複雑さは東京アクセントとは比べ物にならない。「ひがし」は●○○(古くは●●○)で「うめだ」は●●●なのに「東梅田」が●●●●○○になるのをまさか東京の影響だとか思ってるやからは、おれへんやろな。煮込み●●● + うどん●●●が、●●●●○○(煮込みうどん)になるのと一緒の法則やで。東梅田を●○○●●●とか、煮込みうどんを●●●●●●とか、言えるもんなら、ようし言うてみい。

 中国語にも、複合語でのアクセントの変化はある。中国語のアクセントとは、つまり「声調」だ。北京語音ならば、第三声が連続すると前のほうが第二声に変わる、というあの規則のことだ。トーン・サンディ(声調交替)というのだが、ただし北京語の場合は退化してしまっていて、第三声でしか起こらない。広東語にもあるにはあるが、広東語では北京語以上に、もはや「なごり」としか言いようのないくらい、部分的に痕跡を残しているに過ぎない。ばりばりのトーン・サンディというのは例えば福建の閩南語のように、7つの声調が7つとも全て変化する、という豪快なものである。ちなみに「不」は、北京語でも特別な変化をする。第四声だが、否定詞の「不」(bù)の次に来るのが同じく第四声だと、第二声に変わる。「不是」(búshì。念のため言っておくと、この「b-」は濁音ではない)。実は中国語にも連濁はある。福州語などにある。それも日本語以上にすごいのがある。実に東京や北京の言葉は、日本語や中国語の豊富な諸相のうちの、ほんの一部を持ち合わせているに過ぎない。

 「映える」と書いて「ばえる」と読むと、これは「インスタ映え」のこと。連濁が独立をはたしている。「不」もまた、不気味、不器用、不細工、不躾。連濁でないのに「ぶ」と読む。だから、無気味、無器用、無細工、と直されることもあるが、「不(ぶ)~」は負けずに頑張っている。「ばえる」「半端ない」「神ってる」、文法に逆らうと、流行語になれる。

大沢ぴかぴ

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