エッセーの瀬!Vol.134「イゴッソの遺影」
~在中邦人の感賞的後日談~
音楽、文藝、料理、絵画…世の中のありとあらゆる藝術を、市井の目線から解いてゆく…
気鋭のライター4人が送る痛快リレーエッセイ
イゴッソの遺影
ところで、私は異骨相(いごっそう)でも、吉田でもない。
東京からそう遠くない町に生まれ育ち、身体は貧弱でよく隣町の病院にぜんそくの治療に連れられていっていた。父は無く、ものごころつく前から――最初からいなかったものに対しては、寂しさや恨みや憧れなど特別な感情は生まれなかった。
母は女手一つで姉弟を育て上げた。なぜ行きたくもない水泳に私が通わされていたのかは、大人になってから、水泳がぜんそくに効くと聞いてようやく知った。
姉は父親と暮らした記憶があるため、私とは違って心を痛めていることを知っている。私の右手首にはパッチワークのような傷跡がある。2歳か3歳の時か、姉と駆けっこをして遊んでいるときにガラス戸に突っ込んで、危うく死にかけた時の傷である。姉は母にこっぴどく叱られ姉の心にさらに深い傷跡を残した。
最初からいなかった父親は、どこで何をしているのか、生きているのか死んでいるのかさえ知らない。姉によると外見は髭面の長髪で眼鏡もしていたとか。成人した私にそっくりの写真を見たことがあると言っていた。母は父親のことをあまり語らなかったが、大阪出身で幼少の頃は神童と呼ばれ、読書が好きで、頭がよく勉強が良くできたらしい。有名歌人の血を引いていて、塾や書店を経営したとかなんだとかだ。
それが本当かどうか知る由もないが、母はロクデナシと呼び、私にそんな父親のようになるなと「勉強ばかりすると、頭がおかしくなる」と言って、絵を描かせたり、ピアノを習わせたりした。これからの男はこうでないといけないと、昔の「イケイケどんどん」の男性像の反対をいく教育を受けた結果が私だ。貧弱で、軟弱。脆弱にして虚弱な、自己主張のできない、なよなよした少年が出来上がった。元祖草食系である。
ピアノこそ出来るようにならなかったが、美術の成績は高く、母の思惑通り勉強はダメで普通以下だった。しかし不思議と本が好きで、言語学に関しては高校で急に伸びた。その流れで運よく中国の有名大学に進学し、アメリカの名門大学にも短期留学をさせてもらった。勉強はあまりやらなかったが、レベルが上がり続ける授業についていけなくなると、とうとう真面目に勉強するようになった。卒業前は死に物狂いで深夜まで勉強、息も絶え絶えの状態で卒業した。
その後、東京で就職したものの、嫌気がさすと中国に戻ってきた。北京の日本人経営の老舗レストラングループで就職し、高知出身のオーナーの異(い)骨相(ごっそう)――高知弁。快男児や男気にあふれた人のことを指し、坂本龍馬のようなイメージとされる――な生きざまに憧れた。そんな男になりたくて、任された自分の店を切り盛りした。一日12時間も16時間も働き半年も休まないという無理をしていたら3年目には、“貧弱で、軟弱。脆弱にして虚弱”な肉体と精神が崩壊、退職した。近年では見慣れた言葉となっている自立神経失調症の類で、発作が起きれば苦しさと死への恐怖で埋め尽くされる。全く働ける状態ではなかったが、命への執着か、休養を取って半年くらい規則正しい生活をしていたらあっけなく治ってしまった。その後は、とある国際物流の会社に拾われて広州へ来ることとなった。拾ってくれた社長には良くしてもらって感謝しきれない。拠点を任せてくれた上に、私が様々な場所を訪れ、様々な人と出会うチャンスをくれた。
広州に来て数年後。ある夜、営業の一環で訪れた社交場は窮屈で、私は早々にタバコをふかそうと外に出てきた。そこにはパンクロックないでたちの艶々なお姉さんがいた。「ちょっとダルイので、一服しようかと」それこそが、私とJさんの出会いである。後のイゴッソ・YOSHIDA誕生につながる伝説の始まりでもあった。
――道先に明日が どれくらい 待つだろうか この命は まだ 旅の途中 and so I go
――貴方と出逢えて 良かった それで十分 この命は まだ 旅の途中 and so I go
――足跡一つ 残せなくても この命は まだ 旅の途中and so I go
(ラルクアンシエル ALONE EN LA VIDAの歌詞より一部抜粋)
私の今の気持ちをまさに私に代わって伝えてくれている。このように人生とは、続いていくものなのです。
イゴッソ・YOSHIDA
訪中歴10年後半のベテラン選手。広州が大好きで日本に帰りたくない派である。仕事で訪れた中国の都市は数えきれないが、仕事以外はいつも家にいる。趣味は、ゲーム、読書、音楽鑑賞、ガンプラ、外卖など生粋のインドア派。個人的にヴィジュアル系ロックバンドの波が来ている。封鎖式管理を機にVR(バーチャルリアリティー)に乗り出しインドア派レベルを上げた。