花樣語言 Vol.120 ワープロと漢字

2017/07/17

ワープロの直前の時代は、あまり普及しなかった和文タイプライター。グリコ・森永事件(1984~85年)の犯人「かい人21面相」の文書「どくいり きけん たべたら しぬで」などでもわかるように漢字を打つということは非常に手間だったのです。更に前の時代はというと、脅迫状の筆跡隠しは新聞や雑誌から活字を拾った切り貼りと相場が決まってました。横溝正史『女王蜂』などなど。

花樣語言 Vol.120

藝→芸、體→体、龍→竜、のような略字の採用には、書く負担の軽減という利点があったのですが、ワープロ以降の時代、漢字の画数の多さは問題ではなくなります。書くのが超人的に速くて作品数が驚異的に多い赤川次郎は、主要キャラの名前を画数の少ない字にするなど秘訣(?)があったようですが、今の時代なら『君の名は。』の主人公「瀧」のような画数の多い名前でも執筆の速度に影響を与えません。常用漢字表の平成22年の改定で新たに加えられた字に「籠」(かご、ろう)がありますが、かつてJIS漢字コードが先走って定めた略字の「篭」ではなく、旧字体の「龍」のほうを使った「籠」です。龍→竜、瀧→滝、との足並みの乱れ、整合性の問題は無視された形ですが、「襲」という、「龍」を略さない常用漢字もちゃんとあります。(なお、赤川次郎は現在も一途に手書きを続けているとのこと。)

先駆けのワープロの時代のJIS漢字には現在もなにかと足を取られることがあります。賣→売、讀→読、にならった「冒瀆」の「涜」や、區→区、毆→殴、にならった「森鷗外」の「鴎」などなど。旧文部省から漢字政策を受け継いだ文化庁の「(常用漢字表の)表外字は略さない」という方針決定が後手に回ったため、かつては「瀆」「鷗」と打とうにも字がなく、「冒涜」「鴎外」は広く世間に出回ってしまっていて、現在も字の選択にあたって人々を大いに迷わせているのです。「壺」と「壷」などもそう。「発酵」「醗酵」「醱酵」のように3種の形を持つものもあります。

機械化が漢字に与える影響は中華圏でも同じ。「綫」を普通に使っていた香港、現在は「線」がはびこっています。なぜ「線」が増えたのかというと、繁体字のコンピュータ用文字コード「Big5」(漢語名「大五碼」または「五大碼」)を作ったのが台湾のコンピュータ会社だったので、「綫」がなかったからです。今年50周年を迎える香港の老舗テレビ局「無綫電視」(TVB)は「綫」ですが、1993年成立の「香港有線電視」(CABLETV)は「線」。香港ではこの「綫」と「線」の混線(?)は特に問題にはなってないようで、というより、気付いてない人も多いように思われます。漢字と仲良く共存していくには細かいことは気にしないほうがいいのかもしれませんね。現在は香港政府の作った拡張文字セット「香港増補字符集」(HKSCS)というのがあるので、「綫」はもちろん、「衞」(衛)、「滙」(匯)、「峯」(峰)、「邨」(村)など香港で使われているほとんどの字が打てるようになっています。「綫」と似た境遇の字に「栢」(柏)があって、女優の張栢芝(セシリア・チャン)が「張柏芝」となっていることがあるのはこのため。先月香港を襲った台風の名前「苗柏」を星島日報など一部のメディアは「苗栢」としていました。これはいわゆる「過剰修正」でしょうか。混線はつづくよ、いつまでも。

日本の漢字は必ずしも「略字」すなわち画数が少ないとは限りません。例えば「昇」。香港では「升」です。升級、升格、升降。「昇」は人名や固有名詞のほかは化学用語の「昇華」ぐらいなもの。歴史的にも「昇」のほうが新しく、「日が昇る」ことを表したおめでたい字です。「湾(灣)曲」は、香港では「彎曲」。日本では当用漢字のころ漢字の数を減らすため、使用頻度の低い「彎」は廃止、海の「湾」と統合して、「彎曲」は「湾曲」と書きかえたのです。かつて「弯」という略字があったのは「涜」「鴎」「醗」などと同じ理由。表外字は略さないことになったので、「湾曲」のような書き方をしたくない人は「弯曲」ではなく「彎曲」と書きましょう、ということ。

日本の漢字の「歩」には、点がひとつ多くあります。日本人は「步」を「歩」と書く。このことはなんと康煕字典(1716年)にも記されています。中国の古典に「歩」という形もあるにはありますが、もともとは「步」。これは略字ではありません。止+少、ではないのです。右足+左足、の象形。香港の教育者は、「歩」
と書くな、と結構厳しく教えますが、古い印刷物や手書きの看板などでごくまれに目にします。台湾では「江戸川乱歩」(亂步)が「乱歩」のまま書かれることもあるので、そういう本が香港の書店や図書館にも並んでいます。

大沢ぴかぴ

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