花樣方言 ケセン語などの話

2016/03/14

東日本大震災の時、大船渡が被害を受けたと知って、わたくしがすぐに確認したのは山浦医院の位置でした。院長の山浦玄嗣博士は『ケセン語入門』『ケセン語大辞典』などの著者であり、医学博士ですが、ケセン語の研究者としても有名な方です。幸い、病院は海から遠くて、津波の被害は免れていました。あれから、5年がたちます。

ケセン語というのは、気仙地方、すなわち岩手県の大船渡、陸前高田、住田町、そして宮城県の気仙沼など、古くは気仙郡と呼ばれていた地域一帯で話されている言葉で、極めてわかりやすく言うならば「気仙方言」ということになります。ケセン語という命名は、「方言」も「~語」と同等の価値であるという進歩的な見解に基づいています。「なんちゃって語」の部類だと勘違いされやすいですが、それは大間違い。言語学の基礎と手順をしっかり踏まえた大まじめな研究であり、日本語の方ケセン語
言研究史に一石を投じた、実に価値のある業績なのです。

ケセン語は、ローマ字を使って書かれます。ひらがなカタカナではケセン語を書き表すのに不十分だからです。山浦博士は子供の頃、学校で作文の授業の時、話す通りに書けと言われたので日常使っている言葉をそのまま書こうとしたところうまく書けず、どう書いたらいいのか教師に質問したら、文字で書けない言葉なんか話すな、と言われたそうです。自分たちの故郷の言葉は、本に書かれているような東京の言葉とは違う。そう感じたことが、ケセン語研究の原点となったようです。明治以来の強引な標準語推進政策がもたらした弊害ははかりしれません。ケセン地域でも、郷里の言葉が標準語によっておびやかされていたのですね。おそらく大昔のフランスでも、子供が教師に、僕たちの話しているガリアの言葉はどう書くのかと質問して、ラテン語の文字で書けない言葉なんか話すな、と叱られていたことだろうと思います。ローマ帝国の公用語であったラテン語は中世には衰退して、ラテン語のトスカーナ方言、カスティーリャ方言、ガリア訛りなどが現在それぞれ「イタリア語」「スペイン語」「フランス語」となり、独立した言語としての地位を確立しています。

ラテン語の文字、というのはもちろん、ローマ字=アルファベットのことです。ローマ字が本来ラテン語を書き表すための文字であり、ラテン語以外の言葉を表記するには不都合がある、という話は以前に書いた通り。ガリア地方の言葉が文字で書かれるようになり、フランス語として成立するまでには、ラテン語にない発音を書き表すため文字を組み合わせたり補助記号を使ったりと、いろいろ工夫をしてきたわけです。それは英語でもドイツ語でも、そしてケセン語でも同じこと。ケセン語で芝居をする専門の劇団ができると、劇団員のための台本にはカナ書きも必要と考えた山浦博士は、ひらがなカタカナを改造してケセン語用のカナも考案しています。かつてベトナム語を書き表すために漢字を改造して作られたチュノムや、今や香港のいたるところで見られるようになった広東字も、自分たちの言葉を、話している通りに書き表したいがために生み出された文字です。

北京語も、首都の言葉とはいえかつては方言と同格で、文字で書かれることのなかった言葉です。18世紀の『紅楼夢』が、初めて書かれた北京語による小説。昔は「わたし」と書くのにも話し言葉の「我」ではなく、文語体で「吾」と書いていたのです。いざ口語体で書くとなると、新たに文字が必要になります。北京語では、我們(私たち)の們(们)、儞や你(あなた)、很や挺(とても)、瞧(見る)、逛(散歩する)など、多くの字が作られたり当て字されたりしていて、その状況は、睇(見る)、瞓(眠る)、冇(無い)など広東字という独自の漢字を持つに至った広東語の場合とさして変わりはありません。広東語には、「食」(食べる)、「飲」(飲む)、「将」(~を)など古い漢語も多く残っています。北京語のほうがむしろ、「吃」(食べる)、「喝」(飲む)、「把」(~を)など、得体のしれない(?)比較的新しい語彙を多く使っています。

どの言語の場合でも新しい文字は大概、教養レベルの高い人たちによって作られます。特殊なのは、アメリカ先住民の言語の一つであるチェロキー語を表記するチェロキー文字。一見、アルファベットと同じなのですが、その読み方が、A(ゴ)、B(ユ)、H(ミ)、h(ニ)、D(ア)、R(エ)…と、全く違っています。なぜかというと、この文字体系を作ったチェロキー族のシクウォイアという人は、文字というものを見たことはあっても、読めなかったからです。チェロキー文字は、いかな
る文字も読めない人物が、文字を使いたいという一心から独力で自分の言葉を分析して表音文字の原理にまでたどり着き、アルファベットの形だけを借りて作り上げた労作。自分たちの言葉を文字で書きたいという人類の欲求は、力強く、たくましいのです。

大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

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