花樣方言 真心と下心

2017/03/29

恋『SEA SIDE WOMAN BLUES』というサザンオールスターズの曲に次のような歌詞が出てきます。♪愛という字は真心で、恋という字にゃ下心~。つまり、「愛」という漢字には真ん中に「心」という字があるから真心(まごころ)、「恋」には下に「心」があるから下心(したごころ)。では、「思」も「忠」も「忍」も「志」も「念」も下心で、「戀」は「いとしいとしと言う下心」か、となってしまうので、これは面白いけれども漢字の遊びであって、愛と恋の本当の定義ではない、と思う人は多いことでしょう。前回も、「“愛”よりも昔、“孤悲(こい)”のものがたり」と、日本古来の万葉の恋を称えたばかり。しかし…、作詞者の桑田佳祐氏がご存じだったかどうかはわかりませんが「愛は真心、恋は下心」に似た価値観は本当に、過去の日本に存在しています。

愛とは自分より誰かほかの人のことを大切に思うことなんだよ。『アナと雪の女王』でオラフが言うこのセリフは「愛」の意味の基本を的確に説明していると思います。ただし「愛」という語を日本人が使うようになったのは近代化以降。安土桃山時代に日本に来たポルトガル人の宣教師たちはキリスト教の「愛」の意味を伝えるため、訳語として「たいせつ」(大切)という日本語を使っています。一方、「こい」(恋)は、離れている相手に会いたいと思う気持ちのことです。大昔の日本は「通い婚」であり、結婚しても男女は離れて暮らしたため、夫は恋しい妻のもとへと通い、妻は恋しい夫が来るのを待っていたのです。万葉の「孤悲」(こい)や源氏物語の恋愛絵巻はこういう古代日本の風習を土台にして成り立っていたのですが…。

400年以上前のポルトガル宣教師が残した『日葡辞書』は当時の日本語の姿が事細かにわかる貴重な言語資料です。この中には、愛別、愛寵(寵愛)、愛敬、愛着、愛念、愛崇(愛想)、愛悪、愛恩、愛する、のような複合語はあるのですが「愛」という単独の語は確かに載っていません。ポルトガル語の「Amor」(愛)が当てられているのはまぎれもなく「Taixet」=大切(当時の発音ではタイシェッ)。そして「恋」には「Coi」という記載があって(ポルトガル語などラテン系の言語では「K」ではなく「C」を使います)、これの説明は、すごいですよ。すなわち「恋」とは、「愛情、または、よこしまな慕情」。「恋をする」とは、「みだらな慕情をいだく」。邦訳版の解説によると、宣教師たちは「恋を、よこしまな、肉体的な愛情に限定した。これは、清らかな愛、神の愛に対して、人間の男女間の愛を肉体的なみだらなものと見るキリシタンの宗教的な立場からの説明と見られる」。続く「Coi~」の項には辛辣な説明がずらりと並びます。恋風=「思慕の情、または、肉体的な愛」。恋草=「情欲的な激しい愛情」。恋路=「欲情、あるいは、みだらな愛情」。「恋心」も「悪い意味に用いられる」のだそうで、「恋」がいかに受難の時代であったか、よくわかります。『日葡辞書』は当時のローマカトリック、イエズス会のお堅い考え方もよくわかる貴重な歴史資料です。

恋がご法度、というのは実は当時の支配階級であった武士の考え方とも合致します。武家社会では自由恋愛は許されません。人は恋することなく結婚します。武士の世になって以降、万葉~平安朝の「通い婚」はムラ社会に「夜這い」という形で残り(万葉集にも「よばひ」という語は出てきます)、よこしまなものとして武家にもバテレンにも忌み嫌われたのです。明治の世の中も要は薩長の元武士による、武家の価値観が支配する時代。見合いが当然という時代から恋愛結婚へと日本が移行(回帰?)したのは戦後の、つい最近のことです。もっとも現代では便利になり過ぎた交通や通信手段のせいで、会えなくて切ない、という万葉の恋の気分にはなかなか浸れないかもしれませんが。

神を愛する人はいても、神に恋する人は普通はいません。ギリシャ神話や日本神話の神が地上に降りてきて、イケメンなので村娘が恋をした、などという場合だけ(そういうこともほとんどないと思いますけど)。「愛」と「恋」はこのように用法を比べてみれば違いがおのずとわかってきます。けれども似た概念であることは確かで、だから「恋愛」という複合語があるのですが、この「恋愛」は恐らく、北京語の直輸入ではないかと思います。漢語一般では大昔から「愛戀」ですから。「言語」も北京語。普通話では「語言」です。普通話が成立する前、北京の口語は一時期、魯迅や老舎など文豪の筆を通して影響力を持ったことがあって、そのなごりで香港でもいまだに「瞧」(見る)のような字を見ることがあるし、「貓哭老鼠」と「貓哭耗子」の両方を目にします(耗子=鼠、北京語。「猫が鼠に泣く」=偽りの情け心)。ところで…、「真心」のない愛もあります。簡体字の「爱」。

「SEA SIDE」は、「SEASIDE」と分けずに書くのが正しい英語のつづりです。離れているとお互い恋しくなるので、くっつけてあげましょう。

 

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