花樣方言 日本語の母音の無声化と有気音化の関連性
小学生に大人気、『妖怪ウォッチ』のテレビアニメが香港でも始まっています。けったいな妖怪キャラがたくさん創作されていて、70年代に大ブームとなった幻の生物ツチノコや、パンダ模様の、ツチノコパンダというのが出てきます。ツチノコの漢字は「槌之子」か「土之子」あたりが妥当でしょうが、香港のテレビでの訳は「支樂哥」。音訳したのですね。広東語ではナ行音(N)とラ行音(L)は混同されるので、「ノ」の音に「樂」(lok)があてられています。チーローッコー、または、チーノーッコー。…では、「ツ」は、どうして消えてしまったのでしょう。
おそらく、聞き取りにくかったから、だと思います。日本語には「母音の無声化」という現象があって、「つち」の「つ」や「すし」の「す」の母音[u]などが聞こえなくなることがあります。主に、き、く、し、す、ち、つ、ひ、ふ、などが無声子音に続くときに起こるのですが、慣れない外国人が聞くと音節そのものを丸ごと聞き落としてしまいます。おまけに「つ」は広東語にない音で、英語でも語頭には現れない音です。かくしてツチノコは「チノコ」になったのでしょう。
日本語の母音の無声化には地域差があって、関東で特に顕著、中部、近畿では低レベル。…と、実はこれは、前々回Vol.66「パンダとパンダ」でのテーマ、有気音・無気音の問題で、破裂音[p][t][k]が有気音化しやすい地域として挙げたのと同じ地域です。つまり有気音化は、その原因を母音の無声化と関連付けることができるのです。例えば「パンダ」の「パ」の母音[a]、これが完全に無声化することはまずありえませんが、無声化の傾向の強い人が言った場合、消えはせずとも弱まって、声帯の振動開始が遅れます。破裂音[p]の後、遅れて母音[a]が発声されるまでの間には息だけが出るので、[pʰa]という有気音になるのです。有気音化は、息が「強く」出るために起こるのではなく、母音が「弱く」なることのほうに一因があります。
もちろん息を強く出しても有気音はできます。だから「息を強く出せ」と数あまたの教本に書かれているのですが、あえて言いましょう、息は強く出さないで下さい。無理に力を込め、息を強く出すことによって有気音を作っていたら自然な発音でなくなり、本人が疲れるだけでなく、聞いている相手に変なやつだと思われます。それに、相手の言っている有気音を聞き取れるようにはならないため(どうして数あまたの教本には有気音の発音のし方の説明はあっても「聞き取り方」の説明がないのでしょう)、いつまでたってもコツがつかめず、いずれあきらめて有気・無気の区別を放棄する結果になります。逆に、弱い調子で言って練習してみましょう。正しい有気音ならば息は自然に出ます。母音を発するタイミングに神経を集中させましょう。そして、かすれるような「息」の摩擦の音を聞き取りましょう。わかってしまうとあっけないもので、なんでこんな簡単な音が今まで聞き取れなかったのかと不思議に思えて、目から、…いや、耳から、うろこが落ちたような悟りの境地に至れます。…しかし、大人の硬い脳になってからでは、悟りの境地への道のりは、人によってはかなり険しいものになります。本人の努力にかかわらず、残念ながらできない人にはできないのです。言語習得期の幼児であれば何の説明もいらずに100%習得可能なのですから、言語とは本当に不思議なものです。
関東の人は有気音化の傾向が顕著ですが、だからといって広東語や北京語の有気音の聞き取りに有利なわけではありません。話す場合には、無気音が無意識のうちに有気音になってしまわないよう、いっそうの努力が必要となります。無気音を濁音で代用するのはやめましょう。赤ん坊みたいなしゃべり方だと思われるのがおちですが、やはり、有気・無気の聞き分けがいつまでもできるようになりません。無気音のコツは、あえて書くなら「ッパ」のように、短い短い、とても短い「ッ」があると思ってみるのがよろしいでしょう。ほんの一瞬の、ため(溜)です。調音点、すなわち、[p]なら上下の唇、[t]なら舌先と歯茎、[k]なら舌根と軟口蓋が、有気音の場合よりしっかりと閉じられるような感触があります。なぜでしょう。息漏れが起きて有気音になってしまわないように…ではないでしょうか。有気音化が起こる、より重要な原因として、調音点の閉じ方があまい(弱い)ということが挙げられると思います。ギリシャ語でも、唇音弱化によって[f]に変化したのは、無気音[p](π)ではなく有気音[pʰ](φ)のほう。普遍的に、有気音は「弱い」のです。
声優の皆さんははっきりと話す訓練を受けるため、母音の無声化や破裂音の閉鎖の弱化(=有気音化)が起こりにくくなります。『アナと雪の女王』の神田沙也加さんと松たか子さんは声優としては素人であったため発音が自然体で、有気音化も多く、日常の話し方に近かったのです。ありのままの話し方が、高い評価を呼んだというわけです。
大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)