花樣方言 ピンインの話

2015/11/23

Vol. 77
<ピンインの話>

イエズス会の宣教師ニコラ・トリゴー400年前、イエズス会の宣教師ニコラ・トリゴーが『西儒耳目資』でローマ字を使って中国語を表記したことは当時の中国人に大きな衝撃を与えたようです。中国でローマ字表記の動きが活発になるのは時を下って19世紀、更に多くの宣教師がやってきて、閩南語、福州語、閩北語、客家語、広東語、上海語、蘇州語、南昌語、海南語など、中国南方の言葉が次々とローマ字で表されていきます。たった26の文字で自分たちの言葉が自在に書き表せることに多くの知識人が驚き、「わずか26個の文字だが、26万の大軍を得たことに匹敵する」などと、その感激ぶりは相当なもの。この頃のローマ字は「教会ローマ字」または「白話字」などと呼ばれます。
ローマ字はしかし、その名前の通りローマの字であり、本来、古代ローマの言葉であるラテン語を書き表すために作られた文字です(ラテン文字とも呼ばれます)。だからラテン語以外の言葉を表記する場合、実際には多くの困難を伴います。まず何より、表記する言語に合わせて、多かれ少なかれ手を加える必要があります。「シ」という音の表記ひとつ取ってみても、ラテン語にはシャシシュシェショの音がないので、シャ行の子音を単独で表す文字がありません。現代の諸言語では、英語では「shi-」、フランス語では「chi」、ドイツ語では「schi」、イタリア語では「sci」、ポルトガル語では「xi」、チェコ語では「ši」、トルコ語では「si」、言語ごとに様々です。こう書かなければならない、という絶対的な決まりはありませんから、多くの異なる表記法が存在します。日本にははじめポルトガル語の影響が及んだので400年前には「シ」は「xi」と書かれ、江戸時代末期には英語の影響を受けて、いわゆるヘボン式の「shi」に変わります。日本語には対立する「スィ」の音がないわけですから、「シ」の音素表記としては訓令式の「si」で全く問題ないのですけどね。
ローマ字表記は、よほど重大な欠陥構造を持ったヘボ式でない限り、ネイティブスピーカーが日常使うぶんにはたいがい問題ありません。ところがその言語を母語としない人たちが学習用などに使ったりする場合、文字を覚える前からすでにその言語がペラペラであるネイティブスピーカーの場合とは全く違った七面倒な苦労がつきまとってきます。北京語のピンインがそのいい例なのですが、ピンインは本来、多くの人が誤解しているような、外国人のための学習用のローマ字ではありません。それに、そもそもピンインは「発音記号」ではありません。発音記号であれば、例えば「a=ア」と決めたなら常に「a」は「ア」と読ませなければならないのです。ピンインでは、「an」はまだ「アン」に近いですが「ian」と書いた場合には「イェン」です。「i」は「ei」のときは「エイ」なのに「si」のときは「ス」のような音に変わります。「ui」と「iu」はそれぞれ「uei」と「iou」の省略形なので、「ウイ」「イウ」ではなく「ウェイ」「イォウ(ヨウ)」という音を表しています。
こういった読み方の規則を覚えずに勝手に「ローマ字式」に読むことは、説明書を読まずに機械をむやみにいじるような無謀な行為です。学習用として使うのであれば表記の規則は少なければ少ないほどよいのですが、ピンインの場合、ちょっと多過ぎではないでしょうか。理想は、音声と文字の1対1の対応。音素表記ではなく、音声表記。これが学習者の負担が最も少ない望ましい形です。個人的には、北京語を(中国人以外の、大人に)教えるにはIPA(国際音声記号)を使うべきだと思っていますが、残念ながら研究者用の学術書ならともかく、学習用の教本でIPA表記になっているものは現在では皆無だと思います。(ただしピンインもしっかり覚えておかないと、辞書を引いたり、中国の地名人名の英文表記などを読んだりするのに差し障ります。)
ピンインは本来、もしも中国が漢字を廃止した場合、漢字に替わって中国語の正式な文字となる可能性のあったローマ字表記です。おそらくピンインは、ベトナム語のように正式な文字となっていたら、やはりベトナム語などの現状と同様、ほぼ正常に機能していただろうと思います。ネイティブスピーカーが使うには訓令式ローマ字のような「音素」表記がよく、外国人が学習用に使うにはヘボ式、いや、ヘボン式のような「音声」表記がいいのです。言語は、内側から見た場合と外側から見た場合(ネイティブスピーカー側から見た場合とそうでない側から見た場合)で、違った形に見えているのです。
400年前のトリゴーやマテオ・リッチなど中国布教開闢時代の宣教師はカトリックですが、19世紀の教会ローマ字(「方言」のローマ字化)全盛の頃には替わって長老派やメソジストなどプロテスタントが主流になります。すごいのは潮州語で、カトリック時代、『西儒耳目資』よりも6年早い1620年、宣教師用の潮州語文法書が書かれていてローマ字表記があります。原本はバルセロナに、そして抄本が大英図書館にマグナ・カルタや敦煌文献など世界級のお宝本と共に保存されています。

大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

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