なぜ、日本人に武士道は伝わらないのか 第11回
世界中で注目されている日本人特有の性格や行動の数々。
それらの由来は武士道精神にあった。
しかし、肝心の日本人にその武士道精神が浸透していないのが日本の現状である。
筆者が外国生活を通して感じた日本人の違和感を「武士道」や「葉隠」などの武士道関連文献をもとに紐解いていく。
第11回 「克己」って何と読むの?
大学を卒業するとき、大学柔道部の監督に真っ新(まっさら)の色紙を持って「一筆お願いします」とお願いしたところ「克己」という二文字を有難く頂戴した。
かつみ…?
当時22歳、柔道歴10年、落第することなく大学生活を全うしてこれから社会人になろうとする一人の青年として、なんとなく「克己」の読み方とか意味とかをこの場面で聞いてはいけないだろうという直感だけが働いて、「さすが先生、達筆です」という言葉だけをかろうじて喉から出すことができたのを今でも覚えている。
実際にその色紙はあれからずっと実家に飾ってあり帰省するたびに目には入るのだが、だからと言って「克己」という言葉の意味について特段気になったことは一度もない。
そもそも生まれてこのかた、日常生活で「克己」という言葉に出くわしたことはほぼない。しいて言えば柔道の大会でどこかの高校が「克己心」という旗を応援席に掲げていたのを見たことがあるくらいだ。
それほど「克己」という言葉は現在の日本人の日常生活の中ではレアな存在となっており、それこそ柔道部の監督レベルくらいの武人でなければ「克己」の意味も使い方もろくに分からないだろう。
このように今となっては日本人に疎かにされがちな「克己」だが、新渡戸稲造は著書「武士道」の中でSelf-Controlという英語を用いて、「克己」というものが実は日本人の精神を語る上で非常に重要な心得であることを力説している。
ちなみに「克己」を辞書で調べると「自分の感情、欲望、邪念などに打ち勝つこと」という説明がされている。どうりで、監督もこの二文字を私に贈ってくれたわけである。言葉の意味から考えれば「克己」は私たちが人生の中で成功を勝ち取るために間違いなく必要な精神だ。
しかし、新渡戸稲造は「克己」から勝利とか成功というような前向きな言葉を連想させておらず、むしろ「克己」に潜む負の一面に着目し、それが日本人という世界でも特有の文化と性格を持つ民族を形成したと考えている。
1.克己の修養は、ややもすれば度が過ぎ、霊魂の溌剌(はつらつ)とした流れをさえぎることもあるし、また素直な天性をゆがめて、偏狭な、奇形な人とすることもある
2.克己はまた、頑固な性格を生み、偽善者をつくり、愛情をにぶらすこともある
3.わが国民は感情が敏感で、激情しやすいために、絶えず自分を押さえる必要があり、これを励行してきたためだ
なるほど、柔道部の監督の和気あいあいとした空気を一変させるあの威圧感も、私が妻から愛が足りないとよく愚痴られるのも、日本人が辛いのを我慢して笑顔でいられるのも全て監督や私や日本人の克己心が強すぎたがためだったのか。
しかし、この「克己」、つまり自制する心が強すぎて、ある日突然感情が爆発するというのはあながち嘘ではない。犯人の人柄を近所の人に聞いてみると「普段はおとなしくて挨拶もする人だったのでビックリです」というようなコメントもよく聞く。
「克己」が日本人の精神的な強さ、美しさをもたらしたのは確かであろう。しかしその強さや美しさが当たり前のものとなり、あらゆる場面で当たり前のものとして要求されるようになった結果、逆に日本人の精神の崩壊を招いてしまったのかもしれない。
いわゆる両刃の剣とも言える「克己」に対して新渡戸稲造は以下のような理想を掲げている。
克己の理想とするところは、わが国の表現で言えば心の平静を保つこと
私たちは日々の出来事に一喜一憂しながら、そしてあらゆる欲望と邪念に常に囲まれて生きている。泣くなわめくな、行くなやるな我慢しろではその場の平静は保てても、心の平静は到底保てない。感情を抑えることは武士が身につけるべき「克己」の本来の意味だったかもしれないが、これからの時代に必要な「克己」とは、泣きながら誘惑に負けながら、それでも次の日には平静を装いまた前に進むことのできる心のことと言った方がいいかもしれない。倒れなかったことだけでなく、倒れても立ち上がれたことに対してももっと前向きな評価を与えることが日本人には必要な気がする。
…ところで皆さんは「克己」を何と読むか分かりますか?
筆者プロフィール
宮坂 龍一(みやさか りゅういち)
東京都出身。暁星高校、筑波大学体育学群卒業。
香港の会社、人事、芸能、恋愛事情にうるさい。