88KEYS Ltd ピアノ調律技術者の大波恵理さんにインタビュー

2014/11/03

シンプルに生きること「約束の地」で本当の自分に出逢う

88KEYS Ltd.
大波恵理さんインタビュー

大波恵理さん

 

香港に暮らして16年。女性ピアノ調律技術者として異国の地で挑戦する女性から学ぶ、人生をより楽しくさせるためのヒント。

“余計なもの”を背負いすぎて窮屈になっていると感じる瞬間は誰にでもある。年齢を重ねるほどに、現在の自分がそれまで思い描いていたものとはかけ離れた存在になっていることに気づき、時には諦めの気持ちをもって人生を歩んでいく人も多いことだろう。そんな時に人はどうするのだろうか。自分を見つめ直し、思い描く姿に立ち返るためには何を考え、どう動いていけばよいのだろうか。幾多の荒波に揉まれながらも自分なりの生き方を確立していく人たちに学んでいきたい。
香港で唯一の女性ピアノ調律技術者として活躍する大波恵理さんも逆境を乗り越えて夢を掴みとろうとしている1人だ。彼女が香港に渡ったのは16年前。当時、返還まもない香港はイギリス領であったことからヨーロッパの文化が色濃く残っており、小さい頃から音楽や映画、絵画を通して西洋文化に親しんできた大波さんにとってはまさに夢のような海外生活だった。

―大波さんの未来を知っていたかのような母親の教育―
母親が声楽をやっていたこともあり、自宅には常に音楽があった。休日は、母親に連れられ、映画館や美術館、オーケストラのコンサートにもよく足を運んだ。もちろん物心ついた時にはすでにピアノを弾いていたし、周りを驚かせるほどの音感を持っていたという。ただ、練習しなければいけない曲よりも自分の気に入った曲を勝手に弾いていることのほうが好きで、よくピアノの先生を困らせていた。また、プラモデルや機械をいじる事が好きだった彼女は、自宅のアップライトピアノの外側をノックしてはその構造に思いを馳せるという少し変わった幼少時代を送った。芸術を通して常に個を大事にし、他とは違う側面からものを見ることを学んだ大波さんは、既にこの幼少期に「ピアノの調律をする仕事」を意識していたという。

ピアノ演奏と歌
―結婚して香港へ。そして再出発―
1998年。「ピアノ調律技術者」として働いていた日本で転機が訪れる。香港人男性と出会い、結婚を機に香港で生活を送ることになったのだ。渡航してからは外資系の企業で働き、順風満帆な新婚生活を送っていたが、残念ながら結婚生活を維持することはできなかった。異国の地で1人になり、離婚をきっかけに自分の本来の仕事(ピアノ調律師)をライフワークとして見つめ直すことができた。
―自分が本当に愛する仕事とは何か―
様々な不安を抱えながらの生活のなかでネガティブに繰り返される思考を振り払うことができたのは、香港で知り合った音楽仲間や友人たちのおかげだった。ピンチがチャンスに変わった瞬間に、自分のやりたいことがハッキリと見えた気がした。「私はどうしてもピアノ調律技術者として香港でやっていきたい。天職としてこ
れを続けていきたい。」将来への不安を思う前に、“現在”何をするべきかを考えることで、自然と自分の正直な気持ちと向かい合うことができた彼女は、香港でこの仕事をはじめることを決意した。8年のブランクをカバーしながら修理工房を持っていない状態でどれだけやれるのかは未知数だったが、調律や修理の腕、何よりも楽器を愛する気持ちには自信があったし、亜熱帯気候の香港では、大波さんのようなピアノ技術者が必要なピアノが多いことは予想できた。修理も自宅でできるもの、オンサイト(出張)で可能なものを中心にやっていくことを決め、2006年に「88KEYS」は動き出した。日本のような大型ホームセンターのない香港でピアノの修理に使う工具や、部品を調達することは容易ではなかった。それ以前に、女性調律技術者のいない土地で、すんなりとお客さんがついてくれるという保証などない。考えれば考えるほどに不安が積みあがっていく。それでも街の小さなお店を回りながら少しずつ部品や工具を集めていった。

―軌道に乗った88KEYS―
楽器を心から愛する丁寧な仕事ぶりは、徐々に口コミで評判となり、88KEYSは始動から程なくして軌道に乗った。“楽器のお医者さん”――大波さんは自身の仕事をそう呼ぶ。ピアノを前にすると丁寧に観察し、まるで会話でもしているかのようにじっくりと時間をかけて“診断”をするのだ。それから念入りに掃除をする。200年以上の長い歴史のなかでも変わることのない繊細な構造を持つピアノは、ホコリ1つでその音も劇的に変わってくるのだという。むき出しになったピアノの内部を眺めていると生き物を見ているかのような複雑さを感じる。その中を優しく眺めながら調整が必要な箇所を的確に探し、楽器に応じて音を調整していく。季節、場所、ピアノの状態を診ながらその時の最高の音を導きだしていく姿は、まさに“楽器のお医者さん”だ。そして、大好きなイギリスで「Pianoforte Tuners’Association」のコンベンションに毎年定期的に参加したり、ドイツに赴いたりしながら、常にヨーロッパの音色、いい音創りの探求をしている。「私たちは耳だけでなく、身体全体で音を聴いているんですよ。」ピアノの弦を締めたり緩めたりしながら大波さんは教えてくれた。人間だけでなく動物も同様で、調律をする時には犬や猫が自然とピアノの周りに集まって心地よさそうに眠るのだという。だからこそ、彼女は「シンプル」という言葉を大切にしている。良い音の振動を捉えてピアノの周りに集まってくる動物たちも、自分で曲想をつけて自由にピアノを弾いていたあの頃の自分も「良いもの」、「好きなもの」に真っ直ぐに向き合っていた。「88KEYS」が動き出そうとしていた時、それまでの人生の中で辛いことが多かったその時も「異国の地で自分は一体何をしたいのか」を第一に考え、余計な心配事は削ぎ落として「本当に愛する仕事をする」と決めた。人の心を突き動かすものは、いつもシンプルなものなのだろう。88あるピアノの鍵盤は220本以上の弦が共鳴し合い、振動が波動となって音を生み出す。香港という多様性の街も、時に大波さんを助け、厳しく律してきた。その度に現在すべきことを問いかけてくれた。「難しく考えずにシンプルに生きる。」今でも大切にしているこの言葉を教えてくれた香港のことを“約束の地”と大波さんは言う。2015年までにフル装備の修理工房を持つことを目標にしている彼女は、「毎日が楽しくてしょうがない。」と言って笑う。そして、自分の城を夢見ながら今日も15Kg以上ある大きなキャリーバッグを持って大好きなピアノたちが待つ仕事場へ向かう。

大波恵理の日常         大波恵理の日常2
大波恵理(おおなみ・えり)さん プロフィール
香港歴16年。1998年より香港。2006年に「88KEYS Ltd.」を立ち上げピアノ調律技術者として、調律・ピアノ購入時の選定アドバイスなど幅広く活躍している。ヨーロッパの楽器の経験も豊富。聖歌隊にも所属し、毎週日曜日にセントラル(中環)のSt John’s Cathedralの大聖堂で歌っている。調律に出向く先々で出会うペットたちの写真は、オフィシャルブログでも楽しむことができる週末は、聖歌隊の一員としてStJohn’s Cathedral Choirで活動中

大波恵理の調律

 

 

 

 

 

88KEYS Ltd.
ERI Onami
電話:+852-9687-0726
ウェブサイト:http://www.88keys.com.hk

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