花樣方言 広東語版ドラえもんの声担当 林保全さん死去

2015/02/24

どら焼きイラスト

広東語版ドラえもんの声を担当して30年の林保全さんが1月2日、突然、お亡くなりになりました。香港でドラえもんの声といえば唯一無二、香港人なら誰でも知っている、子供のころからずっと聞いてきた声。30年という長さは本家日本の大山のぶ代さん以上です。
香港のドラえもんの歴史は日本の次に古くて、日本同様人気が高いのですが、林保全さんが吹き替えたキャラはドラえもん以外にも、それはそれは、多いなどというものではありません。ガンダムのアムロ、キャプテン翼の若林源三、ドラゴンボールの天津飯、ちびまる子ちゃんの永沢君、忍たま乱太郎の山田先生…。列挙していたらきりがないのですが、こういう名の知れた役だけではなく、ちょっとした端役の短いせりふにも林保全さんの声は出てきます。そうすると香港の子供たち、および以前子供だった人たち、つまり全ての人たちは、あ、叮噹(ドラえもん)の声だ、とわかるわけです。
日本人でも、往年の香港映画のファンであれば、林保全さんの声は必ず聞いています。サモ・ハン・キンポーの声が林保全さんの吹き替えだったからです。ほかにも、『霊幻道士』で意地悪な警官を演じたビリー・ロウの声や、ジャッキー・チェンの『ポリス・ストーリー』の署長の声、などなど。香港映画が撮影同時録音に切り替わっていくのは1990年代の半ば頃からで、それまではほとんど声優によるアフレコです。チョウ・ユンファのように本人が自分の声で吹き込む場合もありましたが、基本的に俳優と声優は分業。これは香港だけでなく、日本以外の全アジア諸国での常識でした。なぜなのか、と聞かれて昔よく答えに困ったのですが、とにかく俳優は演技だけが専門、せりふはせりふのプロが担当と決まっていたのだから仕方ありません。方言が多くて俳優の言葉が均一でないから、と説明したこともありましたが、これはむしろ逆で、アフレコだったからこそ当時の香港映画では、ブリジッド・リン、サリー・イップ、ジョイ・ウォンなど、台湾から来た広東語のできない大物女優が多く活躍していたのだといえましょう。
ヨーロッパやアメリカには、いわゆる声優という職業はありません。普通の俳優が担当します。日本に専業の声優ができたのは洋画の吹き替えという大仕事があったからで、他のアジア諸国では、加えて自国映画の声も声優の仕事の範囲だったのです。日本はアニメ産業の勃興で声優が脚光をあびるようになり、スター声優が続々と生まれます。洋画吹き替えの頃は、チャールズ・ブロンソン、テリー・サラバス、ジャン・ギャバンなどの声で人気があった森山周一郎さんのような方もおられましたが、一般に声優は顔の見えない影の存在、裏方に過ぎません(森山さんのハードボイルドな味のある声は後にジブリの『紅の豚』で、マルコの渋い中年男の魅力を作り出します)。香港では、吹き替え作品に声優の名前のテロップが出ることすらほとんどなく、日本に比べればとても不遇な扱いなのですが、そんな境遇の中、声一本の裏方職人技で草の根の人気を獲得した林保全さんは、やはりすばらしいと思います。
1985年、日本で突如、広東語の教本・教材がたくさん売れるという珍事が起きます。この原因はジャッキー・チェンの映画です。80年代後半から90年代半ばにかけては、日本からの留学生が香港の中文大学や語学学校の広東語クラスを埋めつくします。この現象の原因も、ジャッキー・チェンからキョンシー、さらにチョウ・ユンファの時代…と、香港映画が日本にもたらしたブームのせいです。当時のジャッキー・チェンや、ほとんどの俳優の声は吹き替えだったのだから、日本のファンは別人の話す広東語を聞いて、学習意欲をかきたてられていたことになります。これも香港の声優のみなさんによる影の業績といえるのでしょうかね。
林保全さん追悼の報道で目立ったのは、叮噹の2文字。香港でのドラえもんの、40年来の名称です。新聞も1面に大きく、叮噹。版権所有者側の要請で1997年、公式には「多啦A夢」と改名したのですが、これが不人気、受け入れられないのです。作者の考えは尊重すべきだと思う、しかし「叮噹」のほうが、より親しみを感じられる。林保全さんも生前、インタビューでこう答えておられます。叮噹(ティントーン、Dingdong)とは、鈴や鐘の鳴る音。ドラえもんは首に鈴をつけているから叮噹なのです。ドラミにはいくつもの名前が付けられていましたが、やはり叮嚀がよろしいですね。叮嚀とは、昔、注意や警戒のために鳴らした鈴・鐘。これで丁寧に合図の伝達をしたわけで、日本語の「ていねい」(丁寧)の語源はこれ。由緒ある語です。叮噹と叮嚀、すてきなネーミングではありませんか。ドラミは叮鈴とも書かれますが、広東語で嚀(ning)は鈴(ling)と同じ発音になるのです。それぞれの言葉の中にはそれぞれの世界がひらけています。日本語には日本語、広東語には広東語の世界。ところで、林保全さんは、男性です。香港の感覚からすれば、日本ではドラえもんの声が女性だというのは、とても奇妙に感じられます。

大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

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