広州よもやま話 広州に競馬場?
広州の地図を眺めると「跑馬場」(競馬場)と記された場所があることに気づく。珠江公園の東側、地下鉄5号線「潭村」駅の北側に、競馬場を思わせる道が描かれた巨大なエリアだ。ギャンブル競馬が禁止されている中国で競馬場などあるはずがない……と不思議に思う。実際に行ってみるとそこには自動車展示場があるのみ。では、なぜ「跑馬場」と表記されているのか。じつは、この場所には正真正銘の競馬場があったのだ。しかもほんの十数年前まで!中国で近代競馬が開催されていたなんて…と驚くと同時に、なぜここに競馬場が作られ、どうして今は跡形もなくなっているのかという疑問がわく。
復興の波
ご存じかもしれないが、中国における近代競馬の歴史は意外に古く、19世紀中頃には世界規模の競馬が行われていたという。後に、賭博を伴う競馬ができなくなり競技自体姿を消したように思われている。ところが、1980年代末、 衰退していたスポーツの復興をと考えた広州では、競馬開催が模索されることとなった。もともと競馬の歴史があったわけだから、それを復興させたいと願う人も少なくなかったに違いない。念願かなって、1992年に「広州賽馬会」が発足、1993年にはこの地に広州賽馬場(競馬場)が落成したのだ。
今は自動車展示場になっている
駿馬のごとく駆け抜ける
当時としては香港・沙田馬場に次ぐアジア第二位の規模を誇った。そして、 驚くことに「馬彩」(馬券)も扱われ、火・木・日の週三回、昼と夜に分けてレースが行われていた。1994年には最盛期を迎え、開催日には1〜2万人の観客が訪れていたという。後に、当局はギャンブル性のある競馬をやめるよう忠告。これに対し主催者は、それまで使ってきた「投注博彩」(賭けくじ)という呼び方を「智力測験」(知能テスト)と言い換えたり、「門券対実物奨」(景品式) の形にに改めるなど、折り合いをつけるべく手をつくした。しかし、1999年11月には停止命令が出され、12月12日が最後のレースとなった。約7年間合計757レースが開催された広州競馬場は、こうして競馬場としての短い歴史に終止符を打った。跡地の再開発に際して、 二つのスコアボードは撤去せず、 永久記念物とすることが決められた。
最盛期には2万人もの観客が訪れた
後日談
後に、当時の広州競馬のあり方に関して討論がなされ、失敗の理由が指摘されている。最大の理由は正式な合法性を付与されなかったこと。それに、経営失敗も重なったことが指摘されている。事実、1999年に業務停止した時点で多額の負債を抱えていた。
いろいろあったとはいえ「賽馬会」は現在でもは存続している。そして、現在、 跡地には数十の自動車販売店が集まり、現代の“馬”たちが整然と並べられている。この近くを通ることがあれば、「万事塞翁が馬」―何があるかわからない事を実感できるかもしれない。