花様方言 Vol.195 <混乱する「予言」>
30年前、すでに新型コロナウイルスが予言されていたという。「予言」したのは1990年5月2日の岐阜新聞。大きな見出しで、確かに「2020年、人類の半数が伝染病に」と書いてある。これを香港のメディアが紹介した。「30年前的日本報紙曾預言」「1990年已經有新冠肺炎預言?」。香港では「預言」と書く。(80年代の漫画『AKIRA』の「2020年東京オリンピック」に続いて、「予言」の大当たりである)
「予言」と「預言」にまつわる話をご存知だろうか。「予言」は未来のことを「予(あらかじ)め」予測して言うこと、対して「預言」は神から言葉を「預かる」神託のこと、だからノストラダムスは「予言者」、キリストやマホメットは「預言者」、使い分けましょう、ということだ。これは日本の漢字の、数ある無意味な書き分けのうちの、最も滑稽な部類に属する一例である。上記の通り香港では予言も「預言」だ。岐阜新聞の記者が夢枕で神のお告げを聞いた、と言ってるわけではない。「預」も「あらかじめ」の意味である。預備(=予備)、預算(=予算)、天氣預報(=天気予報)。「預」を「あずける、あずかる」とするのは日本の勝手な用法で、いわゆる「国訓」だ。国訓はたくさんある。「鮑」は本来「塩漬けの魚」、それを日本が勝手に「あわび」にしてしまった。だが清国が日本から大量にアワビ(鮑)を輸入した結果、中華圏でも「鮑」がアワビになってしまった。
漢文学者の高島俊男さんは、中国語には「あずける、あずかる」という概念はない、というようなことを書いている。確かに「預ける」は「讓別人保管」(ほかの人に保管させる)のように言うしかない。「荷物を預かる」なら「我替你保存行李」(私はあなたに替わって荷物を保存する)。ヨーロッパ諸語でも「予言・預言」の区別などない。キリストもノストラダムスも街角のいかがわしい占い師も、みな、prophet(予言者)。なのに日本の国語辞典には「予言」(未来予知)と「預言」(神託)の二つが載っている。(「神託」の多くは「未来予知」である。洪水が起こる、とか、救世主が現れる、とか。両者は分けられない。)「預言」を「宗教での用語」とするのはいい説明だ。さすがに「神の言葉を預かる」と書いて無知無教養をさらけ出す辞書はない(だろう)が、それを「語源俗解」(民間語源)と説明するならば、その辞書はほめられるべきである。
日本でキリストが「預言」者になった理由は、明治になって日本語版の聖書を作るとき、漢訳聖書の中の漢字をそのまま使ったからである。戦後、当用漢字の時代になると略字が採用され、「天國」は「天国」、「傳道」は「伝道」と書きかえられていったわけだが、「預言」は「予言」に書きかえられなかった。「預」に「あずける、あずかる」という国訓があったため、「予」と同じ字だとは見なされなかった。一方で宗教界の外では「予言」が使われていた。かくして日本語では「よげん」が「予言」と「預言」に分かれてしまった。人類の言葉がばらばらに分けられたのは、神にたてついてバベルの塔を作ろうとした報い、らしい。どうりで日本語にも、収束・終息、戦う・闘う、少しずつ・少しづつ、のような混乱が次から次へと生じるわけだ。言葉の混乱はすでに旧約聖書の時代から予言(預言)されていた。(言語は多かれ少なかれ「混乱」するという普遍的な性質を持っている)
日本では「豫」の略字が「予」である。戦前の新聞には「天氣豫報」と書いてあるし、愛媛県に行けば「伊予」の旧字体「伊豫」をよく見る。もし漢訳聖書の字体が「豫言」だったなら、日本に「預言」はありえなかった。整理しよう。かなりややこしいぞ。漢語圏では「豫」の俗字(略字、異体字)が「預」である。そして「預」の簡体字が「预」である。だから簡体字版の聖書では「预言」であって「予言」ではない。漢語圏で「予」は「あたえる」及び「わたし」の古語である。「予(余)は救世主なり」の「予」だ。そして日本語で「給与」「授与」となるところを「給予」「授予」と書く。そして、「与」は「與」の俗字で「~と」の意味であり、「參與」(参与)のようにも使う。(この面倒が神の罰でなくて何であろう。)香港では「豫」は「猶豫」(猶予)ぐらいしか使わない。日本の旧字が香港の繁体字と異なる例は、ほかにも、「障害」のもとの字「障碍」などがある。「碍」もまた実は俗字であり、香港では「障礙」と書く。「障害」は戦後の書きかえ政策によって旧文部省が正式に採用したもので、同音なら少しぐらい意味がおかしくてもいいという、当時の急ごしらえの漢字政策が今になって問題を引き起こしている。「碍」(がい)はもうほとんどの日本人が読めなくなっているので、「害」を使わずに書くとなると「障がい者」となる。内閣官房長官が「令和であります」のように「障礙(がい)であります」とやれば、きっと国民に広く知れわたる。
「渋谷」の旧字体は「澁谷」だが、これも香港では書かない。「澀谷」とするのが正しいのだが、シブヤの漢字は香港のほうが混乱している。「涉谷」とされることが多くて、歌の中でもこの発音で歌われている。また「湿谷」というのもある。これを繁体字にした「濕谷」とか「溼谷」もある。広東語の発音はこの字の音であっているのだが。真夏の渋谷駅の山手線ホームの、あの、むわっとくる高温多”湿”のイメージにも、あっている。日本語の「シブい」にはカッコいい意味もあるが、漢語本来の「澀」(渋)には顔をしかめるような苦渋なイメージしかない。”湿”った空気の”渋”滞する”谷”を人々が”渉”(わた)っていく。…って、渋谷で人が渡(わた)るのはスクランブル交差点だろう。
大沢ぴかぴ