花様方言 Vol. 170 <複数の話>

2019/07/24

P16 Godaigo_701-01成田空港の第2ターミナルに着いた。ここの到着ロビーは20年ぶり。かつての日本の表玄関は、どこの辺境のうらぶれた空港だろうと思えるほど、雰囲気が変わっていた。見上げると、「智能便座」洗(ウォシュレット)の巨大な広告。巨大な便座の写真と並んだ巨大な周迅の顔写真。バッファローズ→バファローズ、のように「ッ」を抜く例が他になかなか思いつかなかったのだが、日本に着くと同時に見つかった。ウォッシュレットではなくウォシュレットである。

キャリアの航空会社が主に使う成田の第2ターミナルは多くが共同運航便(コードシェア)であり、実際の飛行機の発着数は、表示されている便数よりずっと少ない。到着便を知らせるアナウンスはほぼ毎回、複数の便名を告げている。共同運航だから。それを英語では、「XX Airlines Flight○○○…,and YY Airlines Flight△△△,is now arriving…」と、単数形「is」で言っている。飛行機の機体は1機だから、という理屈だろう「The Los Angeles Angels are a Major League Baseball team.」と言う場合、チームはひとつ(a team)でも、複数形である主語(the Angels=天使たち)に合わせて「are」になるのだが。

メガネやズボンはひとつでも常に複数形です、と学校で習う。Glasses are~、Trousers are~(イギリス)、Pants are~(アメリカ)。1本でもニンジン…よりも荒唐無稽な屁理屈に聞こえるようで、日本の生徒たちは次第に「複数」への不信感を深めていく。それに複数だとなぜbe動詞まで変える必要があるのか。(一般動詞だと3人称単数の「-s」を付け忘れるくせに。)これは広く「一致」と呼ばれる現象で、語や形態素のお互いの結びつきを表しているのである。「むすび」がいかに大切かは『君の名は。』の中でもとくと説明されていたであろう。で、何が「結び」を表して、何と何がどう「一致」するかは、言語ごとに異なる。日本語の動詞の活用は、一致する対象が主語の人称や数ではなく、後続する助動詞の種類である。否定の「ない」と結びつくとき、「書く」は「書か」と形を変えて「書かない」となる。「ます」のときは「書き」となって「書きます」。日本語話者なら間違えない。書くない、とか、書かます、とは絶対に言わない。英語圏の子供なら「dog」を覚えるとき同時に「a dog is~」と「dogs are~」も一緒に覚えている。

メガネがなぜ英語では複数形なのか。後に述べる理由に加えて、たぶんフランス語のメガネ(lunettes)が複数形だから、ではないだろうか。中世イギリスの知識人はフランス語かぶれで、フランス語から大量の語彙や言い回しを取り入れた。ヨーロッパ諸国には「国の標語」というものがあるのだが、イギリスの標語「Dieu et mon droit」(神と我が権利)はフランス語である。ではなぜフランス語でメガネが複数形なのかというと、それは、ラテン語で複数形だから。ただし、レンズが2枚あるから、とか、ズボンは筒が2本あるから、という理由をあたかも絶対真理であるかのごとく思ってしまうのは良くない。単数形で言う言語もあるからだ。メガネは、ドイツ語や(Brille)、オランダ語では(bril)、単数形である。形は似ていてもデンマーク語やノルウェー語では複数形だ(briller)。スペイン語圏にはメガネを表す語がやたらとたくさんあって、gafas、lentes、anteojos、antiparras、binóculos、espejuelos、それでもこれらがみな複数形になる。文化圏が同じだと似た発想をする、ということだ。メガネは中世の修道院の話『薔薇の名前』に詳しい記述が出てくる。ズボンの歴史はもっと古く複雑だ。幕末の侍がはいたときズボン!と音がした、という語源説を載せた国語辞典がある。

日本語の「ズボン」の由来はフランス語の「jupon」だとされる。ただしこれはペチコートのことで、フランス語でズボンは「pantalon」だ。米語の「pants」はこれの短縮形。フランス語でズボン一般を表す「パンタロン」は日本では「すその広がったズボン」であり、1970年代に大流行した。意味が狭まって日本語に入ってきたが、すそは広がって入ってきた。で、フランス語の「pantalon」は単数形である。ラテン語では複数形だ(bracae)。英語のズボンが複数形なのは直接ラテン語をまねした可能性がある。(アメリカの標語はラテン語である。Epluribus unum=多数からひとつへ。)ヨーロッパのズボンの単複の分布状況は決してメガネとは一致しない。メガネを複数形にする言語がズボンも複数形にするとは限らない。ロシア語のズボン「б рюки」は複数形で、この語は低地ドイツ語から伝わったのだが、低地ドイツ語に属するオランダ語の「broek」は単数形である。「pantalon」はイタリア語では「pantaloni」で、複数形である。

というようなわけで、Glasses are~、Trousers are~などに特別深いワケはない。「文法上の性」があるのと同じく、「文法上の数」というのもあるのだ。メガネやズボンは英語では文法上複数なのであり、動詞もそれに一致して文法上複数形になる。陳浩基の『13・67』に、昔の香港の警察の英語に関する笑い話が出てくる。ある香港人警察官が、2台の車の衝突事故の報告を「One car come,one cargo,two car kiss.」と書いて上司から大目玉を食らった、と。複数形や3単現が苦手なのは日本人だけではない。さて、ドイツ語「Brille」やオランダ語「bril」には「便座」という意味もある。確かにメガネのフレームに似ている。フランスの公衆トイレの便器に便座が付いてないことは有名だが、フランス語「lunette」にも便座…というか、便座の丸い穴、の意味がある。ギロチンの首穴もそうだ。もともと「円窓」の意味。「bril」の語源は鉱物の緑柱石(ベリル)で、これを磨いてレンズにした。Brillengläer(ベリルのガラス)の、頭の部分がドイツ語やオランダ語になり、後ろの部分(ガラスの複数形)が英語になった。

大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

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