花樣語言 Vol.168<她打他,祂答它,牠踏塔>

2019/06/26

(Confirmed)697_Godaigo村上春樹の『翻訳夜話』にこういうことが書いてある。”英語の小説には「he said」「she said」が多いが、日本語は言葉遣いで男女がわかるので、「彼は言った」「彼女は言った」はいちいち必要ない”。明治維新後、ヨーロッパの言葉をたくさん翻訳するようになって、「he、she」に対応する訳語として作られたのが「彼、彼女」である。ヨーロッパのほとんどの言語には3人称代名詞に男女の区別があるが、フィンランド語にはない。男女いずれも「hän」だ。男女の区別は、言語の機能として、絶対に必要というわけではない。いわば、言語の剰余的効果。なくても小説は書ける。ちなみに村上春樹は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』でフィンランドを舞台にしているが、フィンランド語まで勉強したかどうかは不明だ。

中国でも五四運動後の言語改革期に3人称代名詞「他、她」が定まった。が、「他」と「她」は読み方が同じ、「tā」。字は男女別だが、耳で聞いただけではフィンランド語の「hän」同様、男か女かわからない。小説で、男女が言い争う場面に突然「她打他」と出てきたとして、字を見れば女のほうが男を殴ったとわかるが、朗読だったら、どっちがどっちを殴ったのかわからない。また、英語の「it(」それ)に相当する「它」も「tā」と読む。そして、動物を指す場合の「tā」は「牠」。英語なら動物も「物」と変わらず「it」であり、日本語には動物を指す代名詞はない。動物愛護法ができる前は、確かに、動物を殺しても器”物”損壊罪にしかならなかった。

他、她、牠、它は中国語学習者なら必ず習うが、では、「祂」(tā)はご存じだろうか。示偏は、祠、祀、祈、祝、神、祭、崇、禱…のように神様関係の概念を表す「。祂」はそのものずばり「神」の代名詞である。イエズス会のマテオ・リッチらが中国に入った明の頃から、あるいはもっと前のマルコ・ポーロの時代から、この漢字はあった。旧約聖書によると神はまずアダムを作り、次にアダムの体からイブを作った。確かに、「彼」から「彼女」が、そして「他」から「她」が作られている。ただし「祂」もまた「他」から作られた。神も人間が作った(?)。スピノザやエラスムスを読んで考えておこう。2人称「你」の女性形「妳」は、有名な作家でも使う人と使わない人がいる「。你(」nǐ)に敬称「您(」nín、あなた様)があるように「、他(」tā)にもまた「怹(」tān、彼様?あのお方)という敬称がある。これは特殊な字の扱いで、使う作家はもっと少ない。她、妳、と来れば、では「我(」わたし)の女性形として「娥」はありだろうか。残念ながら「娥」は「うつくしい」という意味の既存の字、特に女性の名前の字として一般化している。使おうともくろんだ人は(いたかどうか知らないが)無念の思いであきらめたことであろう。月には嫦娥という有名な天女が住んでいる。

もっぱら口語としてのみ発展してきた広東語では、「他」に相当する広東字の「佢」に、さほどバリエーションはない。人偏を女偏に変えた字があるにはあるが、あまり使わない。男でも女でも物でもみな「佢」である。香港の役人は英語がペラペラで、テレビのインタビューでは広東語で話した後、同じ内容を自分で英語で繰り返すのが恒例となっている。そして広東語のチャンネルでは広東語の部分が放送され、英語のチャンネルでは英語の部分が放送される。ある高官がインタビューで、名を伏せておくべき人物を指して「佢」と言ったのだが、英語では「she」と言ったため女性だとわかり、誰のことか特定できてしまった、ということがあった。区別がないほうが都合がいいという一例だ。日本語にも「あなた=貴方:貴女」のような書き分けがあるが、こういうのはすでに「文芸」の世界に片足を突っ込んでいる。海女(あま)に対して男性の潜水漁業従業者を表す海士(あま)が常用漢字表の熟字訓に加えられる一方で、看護婦は男女の区別なく看護”士”になった。保母さんに対する保父さんという造語は変化球である。「保母」は「保姆」の、「同音の漢字による書きかえ」(昭和31年)によって生じた「代用字」であり「、姆」は「うば」の意味で「母」ではないからだ。これも正式には、男女とも「保育士」。

タイトルの「她打他,祂答它,牠踏塔」は、日本人の耳にはひたすらターターター、ターターターと聞こえるだろうが、無気音と有気音の違いがあり、広東語なら、答、踏、塔に入声韻尾「-p」がある。ちなみに出典はない。たった今、わたくしが作った。(前回の「施氏食獅史」よりはわかりやすかろう。)「祂答它」は「神がそれに答える」、「牠踏塔」は「その動物が塔を踏みつける」。「牠」がゴジラなら送電塔や寺の石塔のごときは簡単に踏みつぶせるだろう。以前のハリウッド版ゴジラ(1998年)で、ゴジラを指す代名詞に「she」があるのを見つけた日本のメディアが、アメリカのゴジラはメスだ、と書いた。卵を産むからか。だが設定ではオスで、無性生殖のはずだ。もしや「Godzilla」のつづりから、文法上女性名詞とされたか。(普通、ゴジラは「it」か「he」のようだが。)英語にも文法上の性のなごりがあって、船、月、国、車などが「she」になることがある。本来、ヨーロッパの言語では全ての名詞に文法上の性別がある。生物でもオス・メスとは別に、カエルならカエルという単語自体が女性名詞なのだ。自由の女神が女性の姿なのは「自由」が女性名詞だから。香港の漢文で、国や都市を指す代名詞が「她」であるのを見て不思議に思う人は、日本語でも「母国」「姉妹都市」と、女性扱いになっていることをぜひ思い起こすべきである。

広東語で「村上春樹」[tʃʰyːn˥sœːŋ˨tʃʰøn˥syː˨]は、めちゃくちゃ発音しづらい。唇が突き出たまま固まってしまいそうだ「。東京特許許可局」より「きゃりーぱみゅぱみゅ」より言いにくい。

大沢ぴかぴ(比卡比)

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