花様方言 Vol.187 <危ない地名>
日本の地名の話だが、危険な地名の字、という話題が出回って久しい。地震の被害が大きくなる軟弱地盤とか、台風などで水没しやすい地名だとされる。こういう字の付く地名だ。窪(久保)、谷、沢、下、江、海、塩、磯、浦、浜、島、岸、橋、舟、津、池、沼、井、浅、芦、原、稲…。一方、安全だという地名の字もあって、山、峰、尾、丘、台、高、上、曽根、岬、森…。わたくしの生まれた市の名前は安全だという字の組み合わせだが、町名(あざ)のほうは危険な字である。こういう場合は危ないのか危なくないのか、どっちなんだ。
渋谷は名前の通り本当に「谷」で、だから地下鉄が地上に出てくる。隣の青山は「山」で、本当に高くなっている。などという地名ネタはずっと前からあった。それが震災以降、地形・地盤への関心が高まり、加えて台風の大型化やゲリラ豪雨の多発などで、浸水が起こるたびに、やれ「窪」は危ないだの「谷」に向かうなだの、SNSで飛び交うらしい。「窪」とか「久保」というのは確かに「くぼんでいる、くぼみ」のことだが、東京都杉並区の荻窪(おぎくぼ)は、くぼ地ではない。荻窪と呼ばれる地域は広い。あれだけの広さが全部くぼ地だったら、クレーターなみの巨大な穴ということになってしまう。
荻窪はほとんどが高台であり、冠水はない。善福寺川という若干増水の恐れのある川が流れているが、いったいどの場所が「窪」の由来なのかはわからない。危険地名・安全地名は科学的根拠のない「デマ」であり参考にならない、ということを地図研究家の今尾恵介氏は『地名崩壊』(角川新書)の中で書いている。「飲み屋のネタ」ならいいが不動産価格にまで影響を与えるような「地名の由来の自己流の断定」は慎むべきだと主張している。「危険地名」の字を含む、下北沢、船橋、横浜、江ノ島海岸、などもデマで地価が下落したのだろうか。
香港だったら、人聞きの悪い字は躊躇なく変えられる。比較的新しい例ではディズニーランドへの乗り換え駅の「欣澳」がある。駅のある場所は「陰澳」だが、夢の楽園への入り口が「陰」では陰気な気分になる。陰澳(Yam O) → 欣澳(Yan O)と改名して、英語名は「サニーベイ」(Sunny Bay)、太陽(Sun)の降り注ぐ陽気な海辺(澳)にしてしまった。これは改名の名作である。提案だが、毎年ハロウィーンのときだけ「陰澳」に戻す、というのはどうだろう。ライバルのオーシャンパーク(香港にハロウィーンを広めた御本家)に対抗する強力な武器になるかもしれない。香港に地下鉄が開業したのは1979年だが、仮の駅名は1967年ごろには決まっていた。いくつかの駅名が異なっている。樂富は「老虎岩」、葵芳は「垃圾灣」だった。イメージの良い字に変えられたことがわかる。中華圏では虎は人を食う邪悪な生き物という伝統的イメージがある。だから恐ろしい「老虎」(Loufu)を「樂富」(Lok Fu)に変えた。「垃圾」というのは「ゴミ」という意味である。「ゴミ湾」ではいくらなんでも、ってわけでこれもNG。
「垃圾灣」(Lap Sap Wan)は「Gin Drinkers Bay」とも言ったが、これは翻訳語の関係にあると思う。19世紀のイギリスではジン(Gin)は安価で下等な酒と見なされていて、ジンを飲むやつらは酔って暴れまわるごろつき、というステレオタイプがあった。だから、ジン・ドリンカー=ゴミくず。また、ジンはオランダの国民酒でもある。オランダはかつてイギリスと遠洋航路を競い合ったライバルであり、だから英語では、Dutch roll(酔っ払いの千鳥足 → 飛行機の横揺れ)、Dutch courage(酒の勢いを借りた空元気)、go Dutch(割り勘=けち)、double Dutch(わけのわからない言葉、ちんぷんかんぷん)、Dutch uncle(ずけずけ物を言うやつ、説教好き)、in Dutch(困難に陥る、嫌われる)のように「Dutch」の付く言葉にはろくなのがない。ジンを飲むやつら=オランダ人=ゴミくず、のような等式があって(あくまで19世紀の蒙昧な時代の話です)、「ゴミ湾」というネーミングの由来にオランダ人が関係していた可能性はあるが、単にゴミだらけの湾だったから、なのかもしれない。真相は新たな史料の発見を待つしかない。現在この湾は大規模に埋め立てられて、ゴミを埋めたからゴミ湾、という説も聞くが、後付けだ。ゴミ湾が偶然、本当にゴミ捨て場になった。
調景嶺は本来「照鏡嶺」で、「吊頸嶺」(首吊り嶺)と呼ばれるようになったので再度改名した。以前の英語名は「Rennie’s Mill」で、自殺した製粉工場(Mill)のボス、レニー(Rennie)さんに由来するそうだ。投身自殺だったようだが、地元民が「照鏡」(Chiu Keng) → 「吊頸」(Tiu Keng、首吊り)と連想したのだろう。九龍湾の秀茂坪は「蘇茅坪」だった。英語表記「So Mau Ping」をイギリス人が読むと「掃墓坪」と聞こえるので縁起のいい字「秀茂坪」に変えたといわれるが実際、近所には墓地があった。「自殺崖」(Suicide Cliff)という、率直に危ない地名がある。これは改名されない。住宅地ではないし、SNS映えする絶景で、この名前こそが人を呼び寄せている。もし日本に「八つ墓村」とか「鬼首村」という村が本当にあったら、推理マニアは絶対行くだろう。(自殺崖は、虫に刺されるから行かないほうがいい。)モンコクは、英語で「Mong Kok」だが漢字は「旺角」、広東語の発音では「Wong Kok」である。本来は「芒角」という名前で、これが「Mong Kok」だ。「芒」が、縁起のいい「旺」に変えられた。けれども英語の呼び方はもとのまま、というわけ。「芒」はススキに似た草の名前で、かつてモンコク一帯に生い茂っていたらしい。「芒」は日本語なら「荻」(おぎ)にあたる。荻窪界隈には往年の香港マニアがたくさん住んでいそうだが、これも何かの縁か。
大沢ぴかぴ