和光不動産有限公司の世良田紀子さんにインタビュー

2015/01/28

働きながら1人で子育て、親の介護・・・世良田紀子
香港だからこそ成し得た彼女の生き方とは?

父親の仕事の都合で、アメリカで小学校時代を過ごした世良田さん。
その経験がなければ全く違った性格になっていたかも…と話す彼女は、自己主張せず消極的なことは駄目なんだということを幼少期に学んだ。大学卒業後、日本で就職するも、当時の日本は協調性が最重要とされており、彼女の行動はなかなか受け入れられなかったという。アメリカ人でもない、日本人にもなりきれない自分。私の居場所はどこなのか…。そんな戸惑いの中、旅行で訪れた香港が彼女の人生を大きく変えることとなる…。

和光不動産有限公司 業務執行取締役

世良田紀子さん
インタビュー

香港にいらっしゃったきっかけは?
小学校の頃をアメリカで過ごしたのち、日本で中・高・大と一貫の学校に通い、そのまま就職もしましたが、あまり日本の環境に馴染めずにいたんです。日本社会では、はっきりものを言うところや服装が周りと変わっていたところが何かと取り沙汰され、正直煩わしさを感じていました。そんな時、1988年に2泊3日で初めて香港に来てみたらなぜか、ここで生活したいと強く思ってしまい…。街の人たちは他人のことなそうそう気にしません。香港なら私が何をしようが誰もそんなに気に止めないし、ここに住めば解放されるだろうと思ったんですね。翌
年の1989年には香港に移り住んでいました。

来港前は何をされていましたか?
日本では松竹株式会社で働いていました。実は両親、祖父と松竹関係者だったので、私も自然と同じ会社に入りました。私は新設のビデオ事業部に配属され、直接部門の女性が1人だけということもあり、すごく目立っていました。それが嫌だったんです。全ての人が自分を見ているようでノイローゼのようになってしまいました。

香港旅行の際、広東語にも心惹かれたという世良田さん。喧嘩をしているようなのにそうではない。そんな香港人たちの対話を見聞きして、広東語が理解できればより楽しいだろうと思った。ところが広東語を学ぼうと思っても、日本で見つけた参考書は薄っぺらで高価なものが1冊だけ。広東語を学びたいなら、直接香港で身につければいいのではないか…。自分の居場所を見つけたかのようにきらりと輝く彼女の姿が見えた。

世良田紀子2   世良田紀子3   世良田紀子4

香港行きを決めた時の周りの反応はいかがでしたか?
父に、香港で広東語を学びたいと伝えたら「広東語が話せても、ケツを拭く紙の役にも立たないんじゃないか?」などと言われました(笑)。
父の中では、第二外国語を学ぶのであればこれからは普通語だという考えがあったんです。しかし反対したわけでもありませんでした。母を始め、友人、知人の反応は概ね「危ないところじゃないの?」というものでしたが、誰に何を言われても私の決意は揺るぎませんでした。

香港で仕事はすぐ見つかったんですか?
辞職と香港行きを松竹の当時の社長に伝えたとき、娘のように思っていてくれた私のことを心配して香港での仕事を無理やり作ってくれたんです。香港事務所で派遣社員として働き始めたんですが、ちゃんと稼働するようなビジネスがなかったので大変でした。与えられた任務は、当時
は違法レンタルビデオが出回っていたので、それを正規ルートでしか購入できない仕組みを作るというものでした。しかし様々なトラブルが続き、なかなか上手くいきませんでした。

来港1年。母親の病をきっかけに帰国することとなるも、香港への想いは収まらず再び来港。しかしそのときすでに職はなくなっていた。

職を失った状態で香港に戻ってからはどうしたんですか?
どうにかしなければいけないと考えている時に、執筆の仕事をいただいたんです。ライターとして文化や芸能関連記事の執筆などのほか、香港映画の情報を日本へ送ったり映画評論を書くことになりました。当時は英語と広東語を話せるということもありフリーランスライター兼コーディネーターとしての仕事を結構していました。

その後、週刊香港を設立し3年間ディレクターとして働くなど、週の大半は家に帰れない多忙な日々を送る。そんななか、まさかの妊娠が発覚。すでに高齢出産の域でありながらシングルマザーとして1人で産むことを決意する。出産後、一時は復帰するが、子育てしながらの週刊紙発行の業務はきつく、退社することになる。

出産の準備はどうしたんですか?
友人が助けてくれましたが、ほとんど1人で準備しました。フリマなどで中古品の赤ちゃんグッズを安く買い揃えたりしていましたね。病院も政府病院で安く産みました。当時は少し贅沢な3人部屋利用(通常は6人)でHKD3,000くらいでしたかね。日本で産む場合の費用や、香港の私立病院の費用も調べましたが、そこにお金をかける必要はないなと判断したんです。実際、政府病院でも何も不服はありませんでした。

子育てと仕事を両立するうえで苦労したことはありますか?
基本的にはないです。香港のヘルパーシステムに救われて、子供が生まれてからずっとフィリピン人のヘルパーさんにお世話になってきましたから。子育てに加えて、認知症になった父親を香港に連れてきたので、このヘルパーシステムには本当に助けられました。日本にいたら、息子と介護の必要な父親を抱えて1人でやっていくのは無理だったと思います。

1人で子育てしながら働くことで、お子さんが寂しがったりした時はありますか。
息子は現在14歳ですが、小さい時は私が仕事で外出するといえば大泣きでした。こちらも辛いですが、謝ることは絶対にしなかった。仕事は大事だということを、理解させたかったからです。その結果、今の彼は物分かりの良い子になってくれました。とは言っても、男の子だからか、まだまだ甘ったれです。年に1~2回は旅行に行きますが、これは日頃かまってあげられない罪滅ぼし…と言っても、私が行きたいだけかもしれませんが(笑)。

子育てをしているお母様へアドバイスはありますか。
あまり神経質にならないこと。子供の事は何でも心配になりますが、心配する必要のない事まであまり気にしない方がいいと思います。子供は短い周期で変わっていきます。今抱えている悩みが永遠に続くわけではありません。お母さんが迷って疲れては子育ても上手くいかないと思います。また親に余裕がないと子供も神経過敏になるので、心にゆとりを持ってなるべく笑って子育てするのがいいのではと思います。自分はこの子に守られているんだという気持ちでいるのがいいですね。自分がダメでもこの子が許してくれるなどと思うようにする。自分を追い詰めることは、子供を追い詰めることと一緒です。

世良田紀子さんファミリー

現職に就かれた経緯はなんですか?
和光不動産は20年前に関わってましたが、映画や執筆が本業でした。ところが、父の介護で仕事ができなくなったのです。そして2010年、父が入院したちょうどその時、和光不動産から人員欠如で手伝ってほしいと声がかかりました。不動産の仕事をするとは思っていませんでしたが…。

現在の不動産の仕事上、女性であることが役に立ったことはありますか?
やはり住まいの事は男性には分からない部分があるので、女性の方が的確なアドバイスができます。例えば、香港はキッチンなど家事の動線があまり考えられていない住宅が多いんですが、それでもキッチンを大事にされる奥様の気持ちを考えてアドバイスを致します。ご主人1人で内覧に来られた方に奥様目線でお部屋をご紹介したときは、女性でなければこんなことは分かりませんでしたという言葉を頂き嬉しかったです。

心がけていることは何ですか?
頼まれたからやる、頼まれなかったらやらない、ではなく、その時直面している状況でこれがベストと思える対応をしていくことを心がけています。ここで動いたらいいだろうと思えることは、率先して行動に移すようにしています。

気分転換にしていることはありますか?
最近、ゴルフの打ちっぱなしを始めました。家の隣に大きい練習場があり、クラブセットもいただいたのでこれも何かの暗示かと思い、50歳を過ぎて初めて挑戦してみました。当たると気持ちがいいので、気分転換に楽しんでいます。

最後に、香港で働く女性へメッセージをお願いします。
香港は居心地がよく長く居過ぎてしまうかもしれませんが、日本との絆を大事にしつつ香港と日本を繋ぐような仕事をしていってほしいと思います。

世良田 紀子(せらだ のりこ)さんプロフィール
松竹株式会社の派遣社員として香港に渡り、フリーランスでのライター・コーディネーター経験を経て、週刊香港を友人らと設立。その後、(当時)角川グループ洲立影業有限公司へ勤務し、現在は和光不動産有限公司の業務執行取締役として営業を中心に総括的な仕事を任されている。趣味はお酒、映画、読書、最近ゴルフも始めた。14歳になる息子と、旅行に出かけるのが楽しみな母親である。

和光不動産有限公司
住所:Rm. 1605, 16/F., Marina House,
68 Hing Man St., Sai Wan Ho
電話(: 852)2569-8183

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