日本国内の企業・商店「商い航海最前線」

2023/04/05

スクリーンショット 2023-04-03 133042マルチプレイヤー農家が取り組む未来への種まき

インタビュー
株式会社アグリーンハート
代表取締役 佐藤拓郎氏

takuron.1

自動制御されたドローンが種を撒き、海外から遠隔で稲を管理する―。そんなSF小説のような農家が、既に日本に存在することをご存知だろうか。青森県黒石市の米農家6代目で、株式会社アグリーンハートの代表取締役・佐藤拓郎氏。現在、非常勤国家公務員という立場で農林水産技術会議専門委員も務める佐藤氏は、同社で有機栽培や地域復興などに力を入れた農業経営を行うほか、食品加工業、タレント業、ショップ経営など、従来の農家の枠に収まらない幅広い活動を展開している。
そもそも代々続く農家が、なぜここにきて法人化するに至ったのだろうか。「農家の6代目というと安定した家庭で育ったと思われがちですが、実は祖父の代で一度破綻しているんです。私が高校卒業間近の頃、家業が上手くいかなくなり、家も畑も全て差し押さえられてしまいました」と語る佐藤氏。最低限の資源を確保するために父親が親戚中に頭を下げてまわり、佐藤氏も卒業と同時に家業を手伝うことで、数年後には何とか軌道に乗ったというが…。「働きすぎがたたったのか、32歳のとき脳梗塞で倒れたんです。そこでマンパワーが必要だと感じ、農業法人を設立しました」。
社員2法人化後は、農業全体の未来を考えたモノづくり、コトづくりを積極的に行ってきた。そのひとつとして取り組んでいるのが、日本の農業界における担い手不足の解消だ。
重労働であるイメージの強い農業。特に米作りは、土の下準備から始まり、まず別の場所で種を苗に育て、その育った苗を水田に植え付ける。その後成長を管理しながら除草や追肥、水抜きなどの工程を経てやっと収穫という、根気と体力のいる作業が必要になる。その作業負担を軽減し、農業そのもののイメージを覆すため、佐藤氏が力を入れているのがスマート農業の開発だ。

_田んぼと地域13現在、同社が所有する水田のうち70分の1を当てているというスマート農業。時間とコストを削るため、通常の稲作りとは違い、水田に直接種を蒔くが、これには飛行経路などのデータを入力したドローンを使うという。「ドローンは積んだ種が無くなると自動で戻ってくるので、作業者はそこに種を入れるだけでいいんです」。また稲が育ってきた頃に水田を空撮し、どの場所にどの雑草が分布しているかをAI解析することで、従来は全体に撒いていた除草剤を、必要な場所に必要な種類だけ散布することができる。これにより除草剤のコストを抑えられるだけでなく、最大で9割も農薬を減らすことができるという。さらにはIoT管理システムにより、地球上のどこにいても水田の状態確認や水の調整が可能だそうで、上手くいけば、都心部を拠点にしながら農業を営む生活が実現する。
しかも一部のスマート機器を従業員であるエンジニアが自作することで、コスト問題にも対応。ドローン製作費に至っては、数千円程度で抑えられているという。同氏によると、このような先駆的な取り組みをしている農家は、日本全体でもまだ数軒なのだそうだ。

325389417_729783708769024_1860691326587572495_n

「実はいま、香港の田んぼを黒石市で作ろうかという話をしているんです」という佐藤氏。どういうことだろうか。「例えば、香港の人がアグリーンハートの会員になって、黒石にある畑のオーナーになるんです。IoT機器を使えば、どこにいても畑の管理ができるので、こういったことも十分可能なわけです」。まだ構想段階ということだが、生産地のない香港にいながら、仮想空間ではない現実世界で畑を育てることができるこのシステムは、実現すれば画期的な取り組みとなることだろう。

講演・出前4

担い手不足のほかにもうひとつ、米農家にとって大きな課題がある。それは日本人が米をあまり食べなくなったことだ。「日本の米の消費量は、年々10万トンずつ減り続けています。私は食育こそが消費拡大の根源だと考えています」と語る佐藤氏は、青森県の学校教育サポーターとして小学校などをまわり講演会やキャリア教育を実施しているほか、動画投稿サイトで米作りや畑に住む生き物の生態を紹介するなどして、全国の子どもたちに向けた普及活動も行う。さらに4年前には、東京・世田谷代田にライフスタイルショップ「DAITADESICAフロム青森」を開店。ここを青森の農産物を販売する場所としてだけでなく、体験を届ける場にしたいと、都心部の人を黒石に招く農業体験ツアーなどを企画し、その誘致拠点として機能させている。こうした活動によって子どもたちが米に興味を持ち、さらには将来、黒石のプレイヤーとして活躍してくれることを期待しているという。
食の未来、人の未来、日本の未来-。佐藤氏による未来への種まきはまだまだ続く。

同社が手がける減農薬栽培の「たくろん米」はSOGO香港などで入手可能。

同社が手がける減農薬栽培の「たくろん米」はSOGO香港などで入手可能。

スクリーンショット 2023-04-03 141108

株式会社アグリーンハート 
青森県黒石市馬場尻東61-15
www.agreenheart.jp


スクリーンショット (2018)仕事は趣味、世界で三人しかいない大型立佞武多(たちねぷた)の制作者の一人

インタビュー
ねぶた制作・運行団体
「誠和會」所属
福士裕朗氏

スクリーンショット (2026)東北三大祭に掲げられる青森県の「ねぶた祭」。規模が一番大きな「青森ねぶた祭」、クラシックな趣の「弘前ねぶた祭」、そして高さ25メートル以上の大型立ちねぶたが自慢の「五所川原立佞武多祭」がある。五所川原市に続くこの祭で使われる大型の立佞武多を作れる制作者は、世界に三人しかいないという。その一人が福士裕朗氏だ。
彼はものごころついた時から祭に参加し、9歳の時にねぶたの制作に携わってみたいと思い、制作小屋の門を叩いた。なぜ、ねぶた作りを始めたのか? と良く質問をされるそうだが、本人は答えが分からないと言う。スクリーンショット (2031)
「その質問は、私にとっては『なぜ、生まれてきたのか?』という問いと同じレベルなのです。気が付いたら、ねぶたが好きになり、ねぶた作りを始めていたのですから」と福士氏。その言葉から、この地域で生まれ育った人間は自然とねぶた文化の血が流れているのだと感じられる。
小学生でねぶた制作を始めた人は、青春時代には一度制作から離れてしまう人が少なくない中、福士氏の周りは制作を続ける仲間が多かった。
その環境のおかげで続けてこられたそうだ。中学校2年生の時に仲間同士で立ち上げた制作・運行団体が「誠和會」だ。現在は40代を中心に50名程の登録がある。
制作において、大変なことは、何が何でも納期に間に合わせること。修行時代も師匠から納期については徹底的に叩きこまれたと言う。「祭の日にち本番はずらすことはできません。だから、寝不足だろうが何だろうが、絶対に仕上げます。猫の手を借りたり、近所の人にべた塗りを手伝わせたりで、絶対に納期に間に合わせます」と制作者の誇りを垣間見せる。スクリーンショット (2030)スクリーンショット (2024)スクリーンショット (2029) ねぶた制作を続けていて良かったと思える時は、やはり自分の制作した立佞武多が人前に出る瞬間だと言う。「拍手喝采で、フラッシュが焚かれ、ある人は涙して、ある人は興奮して踊り出します。ねぶたを観て、嫌なことを忘れたなんて言葉を聞いた時は本当に嬉しくなりますね」と語る。
コロナ禍において、行政としては中止となった2020年の祭は、自主的に誠和會のみで短距離・小規模で行い、2021年は更に規模を若干大きくして1日だけ山車を引いた。
「ねぶた祭が途切れてはいけない。小規模でも続けることが大切なんだ」という誠和會の想いに、地域の人からは賛同と感謝の声が多く集まったそうだ。今年2022年8月には感染対策を万全にした上で、本来の規模にかなり近い形で祭を無事開催することができた。
また、全国各地の自治体からも「コロナ禍だからこそ、負けずに祭を行いたい。山車を新調したいので制作をお願いできないか」との問合せが増えている。北は北海道倶知安町から南は沖縄読谷村まで作品を送ったり、制作指導で訪れたりとその行動範囲は全国規模だ。
「ブラジルのサンパウロで行われたサンバカーニバルに、ねぶたを運んで参加したことがあります。サンバの音とねぶたのお囃子、サンバの山車と日本のねぶた、両方の祭にも観る人がいる、飲んで、歌って、騒いでいる人がいる。祭は世界どこでも共通する素晴らしいものだと実感しました。これからもこの素晴らしい五所川原の立佞武多が続けていける地域環境を持続させていきたいと思います」と今後の抱負を語ってくれた。スクリーンショット (2025)スクリーンショット (2023)スクリーンショット (2022)スクリーンショット (2027)

ねぶた制作・運行団体「誠和會」所属
青森県五所川原市太刀打千束苅
Facebook:ねぶた自主製作運行団体 誠和會


 

スクリーンショット (1877)

通信技術業界から一転し、青森のリンゴでシードルを作る「IT農家」

インタビュー
トキあっぷる社
土岐彰寿氏スクリーンショット (1888)スクリーンショット (1881)

 図1

青森県五所川原市内で、明治の時代から続いているリンゴ農家の息子として生まれた土岐彰寿(ときあきなが)氏。親からは「農家は食べていくのが大変だから、サラリーマンになりなさい」と子どもの時から教えられてきたと言う。そのため、首都圏の工業大学で電子工学を学んだ後は、そのまま都会で永住するつもりでいたそうだ。
大学では第二外国語で選択した中国語の音の響きが、メロディーのように心地よく、すぐに魅了された。そこで、中国人や台湾人留学生と一緒に「国際文化交流会」というサークルを立ち上げ、一緒に卓球をしたりご飯を作ったり交流を持つようになる。その時に、中国語検定2級に合格し、将来は中国で働いてみたいと考えるようになったと言う。
大学卒業後は、首都圏の情報通信建設会社で3年半ほど勤務するも、中国で働いてみたいという想いが募り退社を決意。単身で中国大連市に渡り、プロバイダサービスを提供する企業や電気通信事業を展開する会社に技術職として働き始めた。
2008年に日本に帰国し、中国深圳市に本社のある大手通信技術系の日本支社に勤務。2019年9月まで12年間、技術リーダーやプロジェクトマネージャーとして活躍をしていた。スクリーンショット (1883)スクリーンショット (1886) Uターンし就農を決めたのは2019年のこと。きっかけとなったひとつが、戦国武将・明智光秀を主人公とするNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の制作発表だった。
子どもの頃から、明智光秀は土岐一族と関係があり、土岐家の家紋も同じだと聞かされていた。改めて家系図を調べ直すと、先祖は初代沼田藩主につながる土岐明智氏であることが判明したのだ。土岐明智氏は、江戸時代に開拓のため五所川原に来て、明治時代からこの地でリンゴ栽培を始めたそうだ。
土岐彰寿氏は「2年後のドラマ放送開始に合わせて、何か企画したいと考えていました。そんな時、所属しているワインクラブの返礼品の中にシードルが入っていたのです。それを飲んでみると、とても美味しくて驚きました。あれ?! ちょっと待てよ。うちの実家はリンゴ農家だよな。しかもトキ種を栽培しているじゃないか! そうだ! 明智光秀に関連したシードルをつくろう! と思いつきました」と語る。
そこに、父親の疾病と、シードル造りのプロとの出会い、米中間の問題で会社の早期退職者の募りなどが重なって、帰郷に至った。
Uターン後は、リンゴ栽培技術を何ひとつ知らない彼に、手取り足取り友人・知人が教えてくれた。色々な人の助けを借りて完成したのが、「ときシードル」だ。その名も「トキ」と命名されたリンゴを使用し、土岐一族の末裔の手によって誕生したシードルの評判は上々だ。日本、アメリカ、イギリス、ヨーロッパなどで配布されるシードル専門情報誌『in Cider Japan(インサイダージャパン)』の表紙に取り上げられたり、台湾では即完売したりと着々と実績を積んでいる。現在はクラウドファンディングやふるさと納税などによる限定販売となっているが、購入待ちの人が後を絶たない状況である。
海外で活躍したUターン者の視点から湧き出るアイディアは、地元の若手農業者たちの刺激となり、交流も増えた。最近では、商品開発やクラウドファンディングに関する相談などが寄せられることも多くなった。
生まれ育った青森を拠点として、グローバルな視野を持ったIT農家の挑戦はこれからも続く。スクリーンショット (1889)スクリーンショット (1891)スクリーンショット (1890)

スクリーンショット (1885)トキあっぷる社
青森県五所川原市神山牧原15-1
☎:0173-29-3016
https://shop.toki-apple.com


Capture

サミットなどの国賓へ
贈呈品として用命を承ける
伝統工芸直営店

インタビュー
江戸切子の店 華硝
熊倉千砂都氏米つなぎワイングラス3色

 1946年、江戸切子発祥の地である東京都江東区亀戸に工房を設立したのが初代・熊倉茂吉氏だ。当時は大手硝子メーカーにその腕を買われ、下請けとして主に海外向けの作品の制作を担当していた。

1990年代に入ると2代目・熊倉隆一氏は日本の硝子の技術とデザイン革新のために下請けを脱却し、江戸切子を直接販売することを決意する。現在の直販店「江戸切子の店華硝」を設立し、以後作品は亀戸の直販店のみの販売とした。さらに、新しい紋様(米つなぎ、糸菊つなぎ、玉市松など)の開発や、芸術性の高い作品であるプレミアムアイテムなど現在の基礎が築かれた。それらの作品は口コミで自然とファンが増えていったという。

200731ブログその次の代は隆一氏の長女・千砂都氏とその弟・隆行氏。隆行氏は学業卒業と共にこの世界に職人見習いとして入り、千砂都氏は教員の経歴を経て30代で家業を手伝うようになった。今回お話しをお伺いしたのは、千砂都氏。技術は弟の隆行氏が継承し、千砂都氏は営業・経理・マーケティングなど会社運営を担当している。

ぐいクラ紅瑠璃ファイル_000 (6)一般の人から著名人や富裕層、政治家まで顧客に持つ華硝は、百貨店や代理店を通さず、直営店のみの対面販売をしている。「伝統工芸品はどうしても、『その家業の人間に接客をして欲しい』というお客様がたくさんいらっしゃるため、休日でもお客様から指名が入り出勤したり、お客様のご自宅にお呼ばれして作品展示のアドバイスを求められたりします。入社当時はまともに休日も取れず息が詰まった時期もありました。しかし、老舗の亭主や大企業の会長さんなど色々な方にお会いできて見聞を広げることができるのも、この仕事の魅力です。家業に入って良かったと思っています」と千砂都氏は語る。

店舗内観2直営店のみの丁寧な接客、高い技術、そしてその美術性が評価され、2007年に経済産業省により「地域資源事業活用計画」の東京都第一号認定を受け、2008年には洞爺湖サミットにて米つなぎのワイングラスが贈呈品として用いられた。以後、国の贈呈品として常時用いられている。また、2008年には経済産業省主催の「感性」展(パリ、NY)に出品。NYでは作品が認められ、建築雑誌に掲載された。

済産業省によるクールジャパンプロジェクトなど海外の方向けに独自の技と発想で事業を行なう中小企業としても紹介されている。

2202041国内・海外から注目を集めるようになった華硝は、2010年に日本の硝子文化の更なる発展のために日本初の江戸切子スクール「Hanashyo’S」を開校。職人の指導により、技術継承とスタッフ育成にも力を入れるようになる。 また、子育てと仕事を両立する千砂都氏は、女性の雇用も増やしたいと考える。現に工房での技術を身に付けた女性が子育てを終えて、また戻ってくるというケースが生まれているそうだ。 今後は海外へも店舗とスクールのセットで進出を考えており、日本文化の更なる発展をけん引する。 2号店の日本橋店では「江戸切子の寺子屋」として体験型ワークショップも展開。子ども(機械使用のため要身長120cm以上)でもグラス作りが気軽に体験できるので、一時帰国の際には是非お立ち寄りいただきたい。

店舗外観

華硝ロゴ(jpg)江戸切子の店 華硝
工房・本店:東京都江東区亀戸3-49-21
☎:03-3683-2321

日本橋店:東京都中央区日本橋本町3-6-5
☎:03-6661-2781

江戸切子スクール:東京都江東区亀戸3-1-9
☎:03-5858-9175
https://www.edokiriko.co.jp

 


 

P05 JP BIZ_vol10_847

名水ある処に銘酒あり。進化し続ける創業300年の蔵元

インタビュー
創業寛延3年(1750年)
山梨銘醸株式会社
代表取締役会長
北原兵庫氏_I2A3017.tif

名水の里として知られる「北杜市白州町」はミネラルウォーターの生産量日本一を誇る町だ。甲斐駒ヶ岳が源流となる伏流水は、直に飲んでも美味しく、酒造りにも最適なため、代表的な酒造メーカーのサントリーもウイスキー蒸溜所を設けている。その“名水の地”で、13代に渡り300年の歴史を繋ぎ、真摯に酒造りを続けてきたのが「山梨銘醸株式会社」である。かつては明治天皇が山梨へ行幸した際に、母屋の奥座敷が行在所(あんざいしょ)に指定されたほど由緒ある蔵元で、この奥座敷は国の史跡に指定されている。
P05 JP BIZ_vol10_847

この蔵元が造る「七賢(しちけん)」は世界一おいしい日本酒にも選ばれた酒としても有名で、「地の水」「地の米」そして「地の人の手」という3つがそろって初めて生まれる地酒として知られている。

北原兵庫会長

北原兵庫会長

北原対馬社長

北原対馬社長

今回、多忙な北原対馬社長と、醸造責任者として酒造りの現場を統括している北原亮庫専務に代わって、取材を受けてくださったのがお二人の父親でもある北原兵庫会長だ。北原家は長野県高遠町に本家があり、祖先が高遠町から江戸へと酒を運搬する際、甲州街道の宿場町である白州町に宿泊をした折に、この地の水に惚れ込み白州に分家を出すことを決めたという。

北原兵庫氏は十二代目として、この地で酒蔵を開いた創業者の想いを受け継ぎ、この名水の素晴らしさをより広く、そして永く伝えられるよう、今日まで励み、そして息子たちに繫いだ。

兵庫会長自身は、家業を継ぐにあたり、東京の酒問屋で3年間の修行を積んだ。当時の上司や先輩に教えられたことで、人の上に立つ人間の考え方や姿勢を学んだそうだ。

北原亮庫専務

北原亮庫専務

代替わりの際には、会長は次期社長である長男・北原対馬氏に「これからは酒造業もグローバル社会に突入するであろうから、アメリカで社会人経験を積んでみてはどうだ?」と異国の地を踏ませた。

次男の北原亮庫氏は酒造りに励みたいということで、岡山の酒蔵で3年修行し山形から杜氏を呼び教えを受け、長年続いた「杜氏制度」を段階的に廃止した。現在は醸造を取り仕切るようになっている。また、新潟からの出稼ぎの人たちだけではなく、徐々に地元の雇用を創造し、地元米も採用するようになった。

P05 JP BIZ_vol10_847中国三国魏時代の七人の賢者に由来する「七賢」という銘柄には、異なる個性をもったラインナップが揃う。種類豊富な中から自分好みの味を見つけるのも、「七賢」のたのしみ方のひとつだ。

本醸造酒「七賢甘酸辛苦渋(かんさんしんくじゅう)」は、地元山梨で食中酒として長く愛飲されており、地元の契約農家で栽培した酒米「ひとごこち」を使用している。飲み飽きずスッキリした味わいは、地元で育った米と白州の水との相性から成り立っている。

贅沢な純米大吟醸「七賢大中屋」は、酒米「山田錦」をなんと37%まで磨いて造った酒で、祝いの席や贈物に引き立てられている。
特筆すべきは、シャンパンのような「七賢スパークリング」シリーズだ。その内のひとつ「杜ノ奏(もりのかなで)」は、同じ白州の地でウイスキーを造っているサントリー社とのコラボ商品。これはウイスキー樽で「七賢」を寝かせることで誕生した逸話を持つ。

北原亮庫氏を中心に2012年頃から「乾杯のシーンに合う日本酒」を目指して、スパークリング日本酒の研究を始め、毎年フランスに赴きシャンパンやスパークリングワインの製法を学んだそうだ。現在のラインナップでは、「瓶の中で二次発酵をさせるシャンパンの製法に近い造り方をしている」と言うから脱帽である。

「息子たちとは男同士なので、口数は多くありません。しかし、お互いのスケジュールの合間に会食をした際など、言葉ひとつに成長が感じられ、頼もしく思います。これからもその情熱で山梨銘醸を引っ張っていって欲しいと思います」と兵庫会長は語る。

変わらないために、変わる。300年続くバトンタッチはこれからも堅実である。021-_U6A36420512s-079

 

027-_U6A3792-Edit七賢ロゴ_黒 


山梨銘醸株式会社

山梨県北杜市白州町台ヶ原2283
☎:0551-35-2236
www.sake-shichiken.co.jp

 



スクリーンショット (1504)

明治時代から続く技能と伝統で世界に打って出る

インタビュー
門間屋 7代目
門間一泰氏

創業150年の仙台箪笥製造会社7代目の門間一泰氏は大手広告会社を退職して、2011年に当社へ入社した。そのきっかけとなったのが東日本大震災(2011年3月11日)の10日後に父が心筋梗塞で急逝したこと。父と一緒にやっていた母親をサポートするべくしての入社だった。
もともと継ぐ気持ちはあったそうだが、父母からは箪笥の需要が時代と共に減少してきていることから、継がない方が良いのではないかと言われていた。
入社後に厳しい会社の状況を目の当たりにする。先代は自分たちの代で終わらせるつもりだったがため、若手の職人の育成や設備投資はされておらず、店舗も住宅街にある工房に併設された一店舗のみだった。ブランディング、技能継承、販路開拓が門間氏の課題となった。ブランディングは手の付けやすいビジュアル面から着手。ロゴの制作やホームページを現代風に刷新した。企業理念を新たに打ち立て、職人の新規の採用を開始。インナーブランディングにも力を入れた。経営者として職人との関係づくりに苦心した日々もあったが、現在は30代の若手の職人も育ってきている。
販路開拓としては、箪笥だけにこだわらずに、技能が活かせる家具販売も開始。一枚板のテーブルなどを手掛ける様になった。また海外の市場にフォーカスし、上海と香港に出店した。
中国では紫檀・黒檀・鉄刀木が古くから銘木として建築や家具・楽器などに使われてきた。それらを使った一枚板のテーブルは資産価値があると見なされる文化があり、仙台箪笥のそれとマッチした。
2021年には香港の高級住宅街ハッピーバレーに出店。今まではデパート内の5坪ほどの売り場だったため、【和】の世界観が出せなかったが、30坪ほどの新店舗では格子戸などの建具や工芸品などトータルで提案している。世界的な日本ブームにより海外では【和】を内装に取り入れる人が増えてきており、新店舗を訪れる日本びいきの人も多い。ゆくゆくはリフォーム・リノベーションにおいても日本の住文化を輸出していきたいと門間氏は語る。
この背景には、門間氏が掲げる「技能の継承」がある。現在、日本の伝統工芸産業において、全体的に後継者不足であり、今後20年後を見据えた時にはそれらの技能が消滅している可能性が高いという。そこで、仙台箪笥に限らず、色々な伝統産業の商品を扱い、海外で販売することにより、職人を目指す若者にビジネスとして成り立つことを魅せ、その技能の継承に一役買いたいというのだ。
「私が子供の頃に仙台箪笥を作っていた職人たちは、みんな誇りと自信に満ち溢れていました。それが、家業に戻って来た時には感じられませんでした。私にとっての原風景を取り戻したいと思ったのです」と門間氏。
自分が作った作品がしっかりと世の中に流通しだした門間屋の工房には、徐々にその原風景が戻ってきた。今度はそれを出来る範囲で日本全体に広げていくことをビジョンに持つ。
「日本の職人仕事に携わる人が自信と誇りを持てる社会を創る」、その挑戦は続く。

仙台箪笥とは

発祥は諸説ありますが、伊達政宗公が仙台藩を収めていた時代に仙台藩の大工の棟梁であった梅村日向(ひゅうが)によって建具の一部として作られたのが始まりとも言われています。
仙台箪笥の特徴は指物・塗・金具の「三技一体(さんぎいったい)」による堅牢な美しさ。木地指物の側面には杉、前面は欅、引出し内部には吸湿性の高い杉や桐を使っています。湿気や乾燥による自然の“くるい”を防ぐため、木地には10年以上寝かせた素材を使用し、熟練の職人が一つ一つ、手で感触を確かめながら丁寧につくっていきます。塗りには日本の誇る岩手県浄法寺産の浄法寺漆を使用。全部で30工程ほどの塗り・磨きを重ね、顔が映るくらい磨き上げる「木地呂塗」の技法によって「鏡面仕上げ」で仕上げます。唐獅子や牡丹などの縁起物や家紋をモチーフとした金具は錆びが出ないよう、漆で焼き付けした後に取り付けます。こうして三つの技が重なり合って完成するのが「仙台箪笥」です。
※門間屋HPより引用

門間屋 7代目
本社:仙台市若林区南鍛冶町143
☎022-222-7083
香港店舗:G/F., 89 Wong Nai Chung Rd., Happy Valley
https://sendai-monmaya.com
スクリーンショット (1499)


スクリーンショット (1299)

WEB制作業務の傍ら、
世界の布で【東京ポーチ】を手作りする女性クリエーター

インタビュー
東京ポーチ
もろいみかこ氏

商航海_Vol.3t
商航海_Vol.3

WEBの制作会社を営みながら世界を旅し、そこで買い付けた布をポーチとして販売している女性がいる。ニックネーム「みかん」こと、「もろいみかこ」氏だ。デザインの勉強後、数社でデザイン・企画・戦略の仕事をしながら頻繁に旅に出かけ、またロンドンとニューヨークに1年半在住した経歴を持つ。

2010年よりフリーランスでWEBの仕事を開始し、その傍らで2017年に東京ポーチを立ち上げた。

旅好きの彼女が世界中を旅している時に出会った、いろいろな国や民族の生活と手仕事。そして布たち。ミャンマーのインレー湖で作られている少数民族の織物、スコットランドのタータンチェック、世界に広がっていったインド更紗、アフリカの一枚布カンガ、ポップなUSAコットン、日本各地に残る染物や織物など、伝統的な布から現在も生活に使われている布まで、どれも個性あふれる。そんな個性的な布に出会った感動を、いつでも使えるポーチにしたかったと語る。
「一つひとつに、国の文化や歴史がつまっています。ミニマムだけど、グローバル。それぞれが物語のあるポーチです。世界各国にある伝統的な技法は大量生産によって失われつつも、脈々と技術を残していこうとする伝承者たちがいます。形を変えて残っていくものたちに出会えた時の感動は格別です。ささやかながら、各地の作り手の思いが、使ってくれる方に届くようにと思っています」と、もろいみかこ氏。
仕様のサイズは全て23cm×17cmで、裏地はリネン、表地は世界の布となる。ファスナーには、もろい氏のアトリエに暮らす猫店長・キジトラみーちゃんのチャームがついている。

東京ポーチが提唱する使い方はいくつかある。外出には必須の3種の神器(財布・鍵・スマホ)を入れたままにしての「インバック」としての使い方がそのひとつだ。大きなバッグに入れた次の日はそのまま別のバッグにいれて使えば、あれ? 鍵どこに置いたっけ? と家の中を探すこともない。
コンビ二に行く時や、オフィスワーク時のランチタイムなど、ポーチだけを持てばちょっとそこまでの外出時にも重宝する。取り外しができるストラップを別売りのロングストラップに付け替えて斜めがけにすることもできるので、アクティブに活動したいときはおすすめだ。
また、大切な母子手帳や、通帳、それに化粧品やカメラ小物の整理などにも便利だ。ストラップをリュックやベビーカーにかけて使えば、小物などが取り出しやすいサブバックに早変わりである。

商航海_Vot

今後の展開をもろい氏に聞いてみると、コロナ収束後の訪日観光客向けに、日本の伝統工芸の布を使用したラインナップの充実を図る予定だそうだ。また、コロナ禍において新たに発表した「ミャンマーパンツ」もポーチを購入者した客層から人気が出てきている。
家にいる時間が長くなり、できるだけ楽な格好がしたい。急な来客でもちょっとおしゃれに見える部屋着がいい、そんな女性の気持ちを代弁したかのようなパンツだ。歳を重ね体型が変わっても長く使える形のパンツは、どんな女性でも似合う。スカートの開放感とパンツの安心感とを併せ持つ、巻きスカート風のミャンマー
パンツ。生地を選んで楽しめるよう、パンツごとに価格を変えている。
オンラインショップをぜひのぞいてみよう。

のギャラリースペースでは、抹茶や抹茶ラテを供する喫茶営業もしているので、是非訪れて欲しい。

猫店長のミーちゃん

猫店長のミーちゃん

Ms.Moroi

 

世界の布を楽しむ、東京ポーチhttp://www.pouch.tokyo
マンダリーナ株式会社 http://www.mikan12345.com
ミャンマーパンツ https://mpants.tokyo


 

スクリーンショット (1160)

温故知新で時代の先端をいく酒造り楽しむ蔵

インタビュー
土田酒造
土田祐士氏

P08 JPBIZ_vol7_835-01群馬県は川場村という人口3,100人の小さな村に拠点を構える土田酒蔵の創業は1907年。長年地元では、誉国光(ほまれこっこう)という地酒の名で親しまれてきた。戦前に行われていた日本酒の品評会(現在の新酒鑑評会にあたる賞)に連続で入賞した蔵だけに与えられる【名誉賞】を関東圏で唯一受賞した酒蔵だ。当時酒蔵数が今の5倍以上ある中で激戦を連続で勝ち抜いた蔵だけに贈られるこの賞は、全国でも数蔵のみが成し得ている快挙である。

P08 JPBIZ_vol7_835-01ooo現在、当主は6代目の土田祐士氏だ。先代の父親土田洋三氏から2008年に事業承継をした際に「この酒蔵を伸ばすも潰すもお前次第。俺はもう口出しせずに引退するから、好きなようにしなさい」と言われたそうだ。その言葉を胸に、自身が造りたい酒を突き詰めてきた結果、辿り着いたのが温故知新である江戸時代の製法【生酛(きもと)造り】だった。

生酛(きもと)造りとは、蔵にすみついている乳酸菌が増えるように環境を整え、その働きを導き促しながらうまい酒に仕上げていく製法である。この添加物を一切使用しないこだわりは、時として神経を使い手間もかかるが、大量生産の画一的な商品とは全く違う、一本一本に個性がある味わいを生み出す。

P08 JPBIZ_vol7_835-01u蔵人同士、「米の味をどう出すか」、「今、温度をさわるべきか」、「菌は本当に降りてくるのか」、「麹の割合をどうするか」、「酵母の発酵をどう経過させようか」と、日々会話を重ね、杜氏を中心に「生み出す」楽しさを感じながら酒造りを行っている。これにより現代的な機械設備と江戸時代の製法、そして創業115年の知見と醸造技術が融合となる。

また、原料に酒米の山田錦を使用しないのも特筆に値する。食用米(食べるお米)を使用し、できるだけ削らず(磨かず)日本酒を造り出す。「削れば削るだけ環境にもコストにも負荷がかかり、ECOではありません」と土田氏。かつての造り方では、精米に1日以上を要していたため、エネルギー削減にもつながるのだ。
委託製造により他県の米の依頼があるとき以外は、群馬県産を使用することにより、「自分たちの米でできた酒」と地元農家の人たちとも地域共同体のような絆が芽生え始めたという。今後も食べるお米を食べる時と同程度にしか削らずにうまい酒を造ることを追求していく。

酒造りの前に土田氏が行ったのが、【人づくり】だ。酒造りの技術責任者である杜氏の職を後輩の星野氏に譲った後は、かつて父親が自身にしてくれたように、酒造りには一切口出しをしないことを貫いた。その甲斐あって、30代の星野杜氏が造る酒は話題となり、近年は大手を含む同業他社からの視察や研修の申入れが後を絶たなくなった。P08 JPBIZ_vol7_835-01oo添加物一切未使用、食米を削らずに使用、常温保存で味の変化を愉しむ、そして現場に固執せず代表職として将来を見据えた動きをする土田氏。今後は、化粧品製造、オーベルジュの併設、味噌などの発酵技術者と子供たちとの交流会など夢は膨らむ。
現在の酒蔵とは真逆のベクトルで未来を切り開く新たな挑戦に今後も注目したい。

土田酒造
〒群馬県利根郡川場村川場湯原2691
☎0120-447-413(通販専用)
https://tsuchidasake.jp


 

スクリーンショット (919)

仙台発のビジョナリーカンパニーを目指し、次の一世紀へ繫ぐ

インタビュー
株式会社フォレスティ峯岸
代表取締役社長 峯岸宏典氏

宮城県仙台市に100年続く材木店「フォレスティ峯岸(旧峯岸木材株式会社)」がある。現在会社をけん引するのが、4代目の代表取締役社長・峯岸宏典氏だ。材木業界では珍しく、アメリカでMBAを取得し帰国後に事業承継した切れ者だ。
戦後の復興に合わせて右肩上がりだった材木業だったが、先代の時代からは斜陽産業となり、峯岸氏が帰国した当時は業界全体が疲弊するまでになっていたという。

峯岸氏が就任してからまず掲げたのは、「仙台発のビジョナリーカンパニー」を目指すこと。今までの100年は材木を販売して利益を出しさえすれば、それで良かった。毎年同じ1年を100回繰り返すよりも、次の100年を見据えて毎年を積み重ねていく取り組みを全社員で共有することからスタートした。
「100年ビジョン委員会」を立ち上げ、毎月1回以上、約2時間半にわたる会議は常時開催されるようになった。

材木業界は今現在もアナログで見積もりや請求書は手書き、注文はFAXや電話が大半だという。そのような業界に身を置く社員は、峯岸氏が大胆なミッションを打ち出した際、「今まで目前の仕事をこなせば良かったのに、『100年先を考えろ』と言われても」と困惑した。しかし、戸惑いの中でも社員たちは、やるべきことを色々と自覚し始め、楽しみながら取り組み、売り上げが前年比106パーセントくらいに上がった。

そして、委員会の回を重ねるうち、「我々の本来の仕事は材木を通して、お客様である工務店を豊かにすることではないのか」という意見がでる。「自身が全面に出て目立つのではなく、あくまでもお客様の課題を解決して支える存在となる。社員たちはプロフェッショナルの厳しさをしっかりと理解し、仕事に臨んでいく」という答えに辿り着く。「森のように人にやさしい」まさにあるべき姿が明確となり、全社員の志が一つになった。
峯岸氏は第一歩として、大胆な策を打ち出す。「AI材木屋によるMBA経営」である。「まずは全てをデジタル化し、システム化できる部分はどんどん進めていきたい。そして、最終的にはAIを導入し、見積もり作成などの部分は学習させて効率化を図りたいと思っています」と語る。P05 Jp Bz_vol_831 v2-0k1 実現すれば、たとえば今まで見積もり1件に2時間かかっていたものが、AIなら1分で可能かもしれない。1時間で1万件もの作成も、決して夢ではないのだ。それは、顧客にとって、納期を大幅に短縮ができるという大きなメリットにつながるだろう。さらに、負担が減って隙間時間が生まれた社員たちをビジネススクールに通わせ、MBAの学位を取得させたいと、峯岸氏の構想は現在進行形だ。
P05 Jp Bz_vol_831 v2-018その傍ら、MBA時代のご縁から、ニュージーランド産ABODO社のウッドデッキを取り扱う話が舞い込む。すぐさま入社したばかりの社員を現地に送り込み、自分たちで扱える・扱いたい商材なのか見極めさせた。デザインや構造が素晴らしいこのウッドデッキは現在フォレスティ峯岸の主力商品となり、一度扱った工務店には好評だ。現在のアウトドア・ブームも後押しし、安定した売り上げを出すようになった。また、Instagramのコンサルタントを入れて、お洒落なウッドデッキを発信することにより、自分の家に取り入れたい人が工務店に依頼をする「B to C to B」の流れを確立した。ここ数年続く世界的な材木不足「ウッドショック」も峯岸氏にはビジネスチャンスに映る。大国での材木需要が増えたため、日本へ材木が入らなくなったのは、「日本は品質にこだわる割には高くかってくれない」といったカナダの思惑が働いてのこと。それを逆手に取れば、「日本の材木は安くて高品質。為替が追い風になって今後は海外に輸出できる日がくることでしょう」という。それも自社だけではなく、材木業者がネットワークを築き、それぞれの材木や木工芸品に及ぶまでをコンテナに混載し共同輸出するのだ。業界全体の底上げができれば、長く存続するための基盤を整えることにもつながっていくはずと意気込む。j 自社に限らず、業界の未来も視野に入れる経営者の目標は、『日本のドラッガー』と言われるような人間になること。曰く、「真のリーダーシップとは、経営を通じて、新たなリーダーを生み出すこと」なのだ。
過去に学び、今を高め、次へつなぐ。4代目としてのバトンをいかにして次世代につなぐか。「世界中にリーダーシップの種をまいていきたい」と語る峯岸氏に今後も期待したい。

スクリーンショット (929)株式会社フォレスティ峯岸
〒宮城県仙台市若林区畳屋丁25-1
☎022-211-1611
www.the-foresty.jp


 

スクリーンショット (833)

「新鮮=美味しい」じゃない。日本食革命を通じて、世界中の人々を幸せにするデリシャス缶詰

インタビュー
エイチアンドダブリュー株式会社
代表取締役 橋爪敦哉氏

Vol.9 橋爪敦哉様 エイチアンドダブリュー株式会社原稿

P08 Life_vol9_8XX

2003年に創業し、広告代理店業として中小・中堅企業のECコンサルティングから、WEB戦略のコンサルティングを行ってきたエイチアンドダブリュー株式会社。代表の橋爪敦哉氏は留学や外国での勤務経験もあり、諸外国にも友人を持つ国際派だ。顧客のマーケティング部として後方支援をしてきたが、形として見える自身の事業を持っていなかったので、いつの日か目に見える事業をしてみたかったという。

そこで着眼したのが、世界の人から熱い視線が向けられている「日本食」だった。マーケティングの仕事を通じて既に食品関係の企業と関係があった為、まずは70社程の商品を集めて台湾市場に売り込んだ。切り口は「台湾初上陸」。デパート側からも消費者からも大きな支持を得ることとなった。

しかし、その中で課題や問題点も見えてきた。一度、冷凍設備の不備により商品が腐敗してしまう事態に陥った。近隣のアジア圏でこんなロスをしていては、とてもではないが欧米や中東、南米など遠くに日本食材を届けるのは難しいと感じた。また、日本人が陥りやすい思考「新鮮=美味しい」の落とし穴にも気が付いた。家の中で調理をすることを前提に鮮度を保ち台湾に運んでいたが、アジア圏では出来上がったものを買ってきて家で食事をするのが一般的だ。賞味期限を最長化して、常温で運べて、家に帰ったら開けるだけで食べられるものを熟考した結果、缶詰に行き着いた。それも通常の缶詰とは一線を画す、手作業で日本料理の一皿を詰め込んだデリシャス缶詰だ。
Vol.9 橋爪敦哉様 エイチアンドダブリュー株式会社

その後、日本各地の厳選素材を使った缶詰メーカーのカンブライト社と縁があり、橋爪氏がマーケティングを担う傍ら株主として経営に参画し、戦略的業務提携に至った。
美味しい材料はあるが企画が苦手、良い物を作ったが広めるのが苦手、それを売るための販路開拓が苦手、と第一次・第二次産業の人が苦手な部分を補う形で、ポップアップ店舗を一等地で開催したり、メディア発信したりとブランド力を高める工夫をこの4年間行ってきた。Vol.9 橋爪敦哉様 エイチアンドダブリュー株式会社原稿 サスティナブル・ブランドと命名された「CANNATUREL(カンナチュール)」は、日本各地の生産者や飲食店、食品メーカーと共創開発を通じて、世界中においしさと物語を届けることを目指す。共創プラットフォーム活用サービス「シサクル」を起ち上げ、商品開発における最初のハードル「試作」を連携工場ネットワークで担い、さらに小ロットOEM製造、マーケティング支援まで視野に入れたサービスを提供している。この共創プラットフォームを活用してのコラボ商品開発の問合せは、このコロナ禍において当社の追い風となっている。消費者は外食を控え、内食で高級な食材を欲する中、飲食店や生産者、食品関係者からは新たな販路として、毎月20件ほど問合せがあるという。
P08 Life_vol9_8XX
更に近年、SDGsの共有目標に向けての意識を得て、「海外の生活者にとっての高付加価値を届けるだけではなく、日本の第一次産業及び食品製造業の永続的発展に向けた高付加価値商品づくりを連携させる日本食革命を通じて、世界中の人々と幸せになる。」というビジョンが定まることで、よりサスティナブル・ブランド事業へと昇華してきている。
2021年には香港への出荷も始まり、今後の展開が楽しみなブランドだ。

廃校を活用した缶詰工場。地方再生もテーマのひとつ。

廃校を活用した缶詰工場。地方再生もテーマのひとつ。

Vol.9 橋爪敦哉様 エイチアンドダブリュー株式会社原稿エイチアンドダブリュー株式会社
大阪府大阪市北区中津1-15-15 中津第2リッチビル2F
東京都新宿区西新宿3-2-26立花新宿ビル9F
☎06-6374-8155
http://www.h8w.co.jp
https://can-naturel.jp

スクリーンショット (592)

明治五年の創業以来初めての女性杜氏にインタビュー

インタビュー
千歳鶴
杜氏 市澤智子氏明治5年、北海道の酒造業の幕を開けた先駆者と言われる柴田與次右衛門(しばた・よじうえもん)が、創成川のほとりで造り酒屋「柴田酒造店」を創業。“どぶろく”などのにごり酒が評判で、数年後には清酒をつくりはじめたと伝えられている。

「柴田酒造店」は、その後、同業者を束ね合名会社を「日本清酒株式会社」に発展させ、統一銘柄をおなじみの「千歳鶴」とした。

戦後は好景気に支えられ、「千歳鶴」は順調に生産を伸ばし、昭和34年には当時国内最大規模の酒造工場「丹頂蔵」を竣工、3年後には海外輸出を開始した。昭和42年には本州にも拠点を広げるなど、高度成長時代と共にその翼を大きく広げて羽ばたいてきた。また、「全国新酒鑑評会」でも14年連続金賞の栄誉に輝くなど、「千歳鶴」は北海道ブランドの銘酒として全国にその名を広めることとなった。

商航海_Vol.47今日、その歴史ある「千歳鶴」のかじを取る杜氏が明治五年の創業以来、初めての女性杜氏である市澤智子氏だ。

大勢の蔵人をまとめる彼女だが、幼少期は割と人見知りする子どもだったという。学生時代はバスケットボール部に所属しチームのキャプテンを務めており、リーダーとしての素質に自身でも何となく気が付きはじめていた。

酒造りのきっかけは、高校時代に酒や味噌、醤油など身近なものを造り出すことができる「微生物」を利用した発酵食品全般に興味を持ったこと。当時では唯一醸造学科のあった東京農大短期大学部へ進学を決意した。

米と水だけで造る日本酒は、その年によって味わいの違いや個性が出てくる。それが日本酒の製造工程の複雑さから来ると知り、酒造りの面白さにのめり込んで行ったそうだ。また、酒米の出来も毎年異なる事から、その年の酒米の状態を考慮し麹や酵母の繊細な加減を考えた酒造りを行っており、毎年100%満足が行く酒ができることはなく、次の年の酒造りに向け絶えず新たな追求を行っている。商航海_Vol.冬は酒造り、夏場は酒米を作ってくれる契約農家との意見交換や米の育成状況の確認をし、機械装備のメンテナンスや次の酒造りの設計・製造計画・購買計画を立て、多忙な一年を過ごしている。なおかつ日本酒のトレンドを調べる市場調査も航路を描く杜氏の大切な仕事だ。

杜氏としての苦労を聞くと、「酒造りは手作業が多く日々状況も変化するため、酒造りの時期は醪や米麹に付きっ切りになります。また、良い酒は杜氏ひとりでは出来ないと考えています。酒造りに携わる全員が一丸となりそれぞれが120%の力を発揮しなければなりません。そのため適材適所で働ける環境造りや働き方改革に適合した労働条件の見直しなども実施しなければなりません」と語る。

コロナ禍において、販売先の飲食店と観光土産店の打撃が甚大で、販売量が大きく減少した。そのため、原酒量が過多になり前期・今期と製造数量や内容を大幅に見直す必要があったという。
しかし、苦境に負けることなく、北海道に拘り北海道の米と地元の水で造る「札幌の地酒」として愛されるブランドに育てて行き、それを次の世代に繋いでいく事が杜氏としての役目だと語ってくれた。 商航海_Vol.41

商航海_Vol.4jj

日本清酒株式会社
〒060-0053 札幌市中央区南3条東5丁目2番地
☎011-221-7106
www.nipponseishu.co.jp

 


 

スクリーンショット (464)

15坪、三角形の狭小地にあるギャラリー兼 壁が動く正統派茶室

インタビュー
谷中茶室 汲
亭主 吉村嘉造氏

下町情緒が残りながらも古民家カフェなどお洒落なお店が増えてきている東京・谷中にある「谷中茶室 汲(くむ)」は茶室であり、ギャラリーでもある。創業2008年の前身である「ぎゃらりい81(やいち)」を母から引き継いだのが現・亭主の吉村嘉造氏だ。
元呉服屋の母が「着物や古美術品の美しさを引き立てる、ひとつの舞台としての茶室」を、デザインPR会社を営む嘉造氏に託したのが2021年のこと。P06 jp bz vol3_823 v2けっして恵まれた敷地条件とは言えない約15坪の敷地面積の形状は三角形。一階の小間席(四畳半以下の茶室を指す)は、三角形のもっとも長い一辺と平行にあるギャラリースペース(兼喫茶スペース)を邪魔しないように位置している。このギャラリースペースと茶室を区切る躙口(にじりぐち)と連子窓(れんじまど)のある壁面は、丸ごと可動式にする工夫が加えらた。

可動式の壁と襖は収納庫にすっぽりと収めることができ、締めきれば二畳の茶の湯空間に、開放すればギャラリーの特設ステージとなるのだ。
また、階段を登り切ると二階には裏千家仕様・八畳広間の茶室が現れる。天井の板や壁塗りは東京の職人では造る事ができず、わざわざ京都から職人を呼んで施工したという。

壁と襖を締め切った状態

開放してギャラリーの舞台としての状態

 

P06 jp bz vol3_823 v2-01r

「デザインスタジオgobzib designが運営することにより、広告やチラシといったツールもデザインできるので、PRとして上手くはまるのではないかと思っています。クリエイティブ業で繋がったアーティストの作品展示やワークショップを開催し、体験型のギャラリーとして谷中全体を盛り上げていきたいですね」と吉村氏曰く、コロナ禍の自粛終了と共に各ジャンルのアーティストとコラボを予定。母親が築き上げた「和の世界」を踏襲しつつ、自分なりの企画展示を今後開催していく予定だ。

P06 jp bz vol3_823 v2-01ww吉村氏には、入門者や一般の人が抹茶に触れられる場所としても開放したい想いがあり、茶筅を自身で振り、どうすれば芳醇な抹茶が点てられるのか等も気軽に体験できるようにしたいそうだ。コロナ禍以前は、海外から外国人旅行客が大勢訪れていたそうだが、それでも海外に向けて発信というよりかは、「茶室という和の空間」を押し出し、谷中エリア全体を盛り上げることにより、先ずは国内の他のエリアから、その次に自然と海外からも人が訪れるだろうと考える。

イベントがない時も一階のギャラリースペースでは、抹茶や抹茶ラテを供する喫茶営業もしているので、是非訪れて欲しい。

谷中茶室 汲
東京都台東区谷中6-4-5
☎03-3828-3893
Facebook:yanakakum
営業時間:12:00~19:00
休業日:月・金曜日
(現在、諸事情につき不定期営業中。詳しくはInstagram, Facebookにて)

 


 

日本国内の企業・商店 紹介記事 商い航海最前線電気工事事業で養った技術力で
パクチー栽培事業に参入

インタビュー
農地所有適格法人
OMDアグリネットサービス株式会社
取締役 本多眞谷士

電気工事事業や太陽光発電事業などを主に、アフリカのガーナやカンボジアなどでも事業展開をする株式会社大木無線電気は千葉県船橋市の企業だ。
2016年に農業部門グループ会社「OMDアグリネットサービス」を設立し、農業の6次産業化への挑戦をスタートしている。
千葉県市原にある農場では、長年培った技術を基に、資材調達から設計施工までをすべて一貫して自社で建てたビニールハウスで、「高床式土耕栽培」を活かし「パクチー」「ガパオ」「ホーラパー」などの珍しい野菜を栽培している。
商航海_Vol.2「パクチ―」の栽培・販売だけがビジネスの目的ではなく、ビニールハウスの構造試験、施工技術の向上を図り、ノウハウの蓄積による独自のビニールハウス建設資材の販売や設計施工を目指している。
また、顧客となる農家のビニールハウス建設、電気設備工事や、土木工事等の実績を積んでおり、幅広い工事を一挙に進めることができるのも強みだ。
ハウス建設の基礎はコンクリートが一般的だが、同社では野立て太陽光発電所建設で得たノウハウを活かし、鉄骨ハウスの基礎土台をスクリュー杭により施工することで大幅なコスト削減を実現した。堅牢で長持ちするハウスの撤去時は杭を抜くだけだと言う。
取締役の本多眞谷氏は、この他に新規就農者の人材育成や支援、身体障害者の就農機会の創設を目標に掲げている。
「我々の本社がある千葉県船橋市でさえも、かつては広大にあった農地が今では建売住宅の宅地に変わっていっています。まるでオセロのようです。このまま日本の農業の衰退を見ていて良いのだろうか? そんな気持ちが農業参入を後押ししました。」と語る本多氏は未経験から六年の間、農業に向き合ってきた。商航海_Vol. 斬新さと希少価値とを追い求めた結果、スタートアップ時から「パクチー」の栽培を決定したのだが、希少なだけに日本ではまだ栽培技術・ノウハウがなく、作付け計画が立たなかったと言う。「パクチー」そのものは病害虫に強く、冬場でも生産ができるものの、連作障害で育ちにくい弱点もあり、当初は計画生産・販売ができなかったそうだ。
主要取引先はエスニック料理店などの外食産業だが、コロナ禍において出荷量が減ったため、2021年からは小売店向けやネットでの通信販売、自社直売所などでの販売にも力を入れ出した。また、2021年7月には創業200年の大高醤油株式会社(千葉県山武市)とのコラボ商品「パクチー醤油」を開発している。

パクチーの葉の部分だけを乾燥させ粉末に加工したパクチーパウダーも販売。

少しずつ回復してきた外食産業向けには今後、「パクチー」以外にも良く使われる「ノコギリコリアンダー」や「レモングラス」など、国産に対するニーズが上がっているハーブ類を一括納品できるよう取り組んでいく。
現在海外に頼る「ノコギリコリアンダー」は生で輸入されており、質にばらつきがあり、輸入が停まることがある。また、「レモングラス」は冷凍で輸入されており、当社は一年中、生で出荷できる点を顧客に高く評価されているのだ。
本多氏の信念に「パクチーは嘘をつかない」という言葉があり、自分が愛情をかけた分だけ「パクチー」は応えてくれるという。
ようやく計画生産・販売の光が見えてきた六年目にして、更なるファン層の獲得を目指している。

農地所有適格法人
OMDアグリネットサービス株式会社

本社:千葉県船橋市芝山4-18-1
農場:千葉県市原市南岩崎273-2
☎047-467-7706
https://omd-agri.com

 


 

 

商い航海最前線野菜直売所を営む農業女子を訪れて

インタビュー
じゅり菜ファーム
相田樹里氏

スクリーンショット (172)市原市馬立にある「じゅり菜(さい)ファーム」は若手農業女子オーナーの相田樹里さん(28才)が経営する農園・野菜直売所だ。
丹精込めて作った朝採れの甘くて濃厚な白いトウモロコシや野菜を毎週水曜・土曜・日曜日の午前8時から12時の間に販売(なくなり次第終了)している。

扱うトウモロコシは、茹でても生でも抜群の甘い美味しさを味わえる「サニーショコラ」や、飲むトウモロコシとも呼ばれ果物のようにジューシーな果汁が特徴の「ドルチェドリーム」、真珠のように純白で粒皮は柔らかく、非常に甘い「白いおおもの(旧・ホワイトレディー)」の三種類だ。スクリーンショット (164)

高校生時代はソフトボール部に所属し全国大会にも出場したことがある彼女は、スポーツウーマンの爽やかなオーラをまとう。
卒業と共に学校に貼ってあった求人の面接を受け、羽田空港の仕事に就職。やりたいこともなく、あまり深く考えずに進路を決めたと言う。
四年年ほど経った時に、このまま面白くない仕事をずっと続けていくことができるのだろうか? と思い悩む日が続くようになる。そんな時に思い立ったのが、元々身近にあった「農業」だったそうだ。幼い頃から遊んでいた自然の中での思い出には、兼業農家だった祖父母の背中が浮かぶ。トラクターに乗せてもらったり、ビニールハウスに入って遊んだりした記憶が就農のきっかけとなった。外で身体を動かすことも好きなため、農作業に向いているとも思ったのだ。スクリーンショット (165)

就農を決意してからは、先ず袖ヶ浦市で多品目を農作している農家に三年半の研修にいき、学びながら自分にはどのような農業が向いているかを考えた。野菜の栽培方法以外に、年間を通して計画を立てて、いつどのような野菜を育てるかといった農業の経営もそこで学んだ。

スクリーンショット (166)2019年4月より「じゅり菜(さい)ファーム」をスタートし、今でこそパートタイムスタッフがいるが、最初は計画立て・栽培・出荷・配達・帳簿付け・ホームページ管理まで自分ひとりで全てをこなした。
「土にまみれて、トラクターに乗り、毎日美味しい野菜を作るために奮闘しています。お客さんに美味しかったと言ってもらったり、リピーターになってくれたりすることが大変嬉しく思える瞬間です」と爽やかな笑顔で語る。

基本は直売所や近隣のスーパーの産直コーナーなどで販売をしているがLINEの公式アカウントでも購入することができる。
北海道と沖縄は鮮度が落ちるので発送はできないが、遠くには九州にもファンがいて定期的に注文が入る。

「近隣の農家の方や友人、それに消費者の方々のおかげで、徐々に自分なりの農業が形になってきました。今後はトウモロコシのペーストなど保存の効く一次加工食品の製造などを手掛けて、もっとたくさんの方に美味しい野菜の味を届けたいです!」
その言葉どおり、千葉県市原市の農業をけん引する若手農家の今後に期待をしたい。
スクリーンショット (170)

スクリーンショット (169)じゅり菜ファーム

千葉県市原市馬立1117
☎080-7400-7056
www.jyurisaifarm.com

←詳しくはこちら

 

 

Pocket
LINEで送る