開平望楼 ミステリアスな建物群 2

2017/01/17

開平望楼華僑が世界各地から持ち帰った多種多様な建築スタイルが周囲の風景とのコントラストを描く、ミステリアスな建物郡―「開平望楼」。前回紹介したとおり、デザイン性、堅牢性、機能面で異彩を放っている。さて、華僑たちがこうしたユニークな建物を建てたのはなぜなのか?

望楼の出現は開平の地理環境・治安環境と密接に関連している。起源は明代(1368〜1644年)後期といわれる。開平は海抜が低く河川が網状に流れている。そのため治水を怠ると、台風が来るたび水害が発生していた。それに加えて開平は過去、新会・台山・恩平・新興4県の県境に位置し、「四不管」(誰の管理も行き届かない土地)なため、治安のエアポケット状態だった。そのため、開平人民は望楼の建築を始め、水害対策と防犯に利用していた。

開平望楼

アヘン戦争後、アメリカ西部開発やゴールドラッシュなどを受け、多くの開平人民が契約労働者として国外へ渡っていった。契約労働者とは名ばかりで、実際には「苦力」つまり奴隷労働のような環境で、多くの者が異国の地で死んでいった。幸いにも生き残った人たちは、華僑となる。しかし、1882年に公布された「中国人排斥法」の制限を受け、米国社会に溶け込むのは不可能であることを悟った華僑は、故郷に夢を託した。ある者は故郷へ資金を送り、あるものは帰郷することを決める。帰郷に際して重視したことは三つ―家を建てること、土地を買うこと、妻を娶ること。ただ故郷開平は華僑にとっては決して安全な場所ではなかった。裕福な帰国者や華僑の親族が多かったため、匪賊の恰好の餌食となってしまったのだ。

開平望楼

そんな中、望楼建設に拍車をかける事件がおきる。1922年12月に匪賊の集団が開平中学を襲うも、望楼のサーチライトに照らされ各地から集まった人民により撃退されたのだ。華僑はこの話を聞いて、望楼には匪賊を防ぐ効果があると考えるようになり、望楼建設ラッシュが到来する。この建築ラッシュは、華僑の送金が不可能になる太平洋戦争前まで続いた。海外から持ち帰った設計図、写真及び材料を用いたため、多様なスタイルが誕生した。建築工事を引き受けたのは、すべて地元の建築技術者だったため、中国式建築の特徴も入り混じり、摩訶不思議な建物郡が出現した。次回は具体的ないくつかの望楼にスポットをあってみよう。

開平望楼

開平望楼
住所:広東省開平市塘口
アクセス:広州市内からバスで約1時間半

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