深センものがたり 第41回
深南大道,問わず語り その一
※問わず語りとは、誰かに求められた訳でもないのに、勝手に語ることである。
誰かに深センの街を紹介する時、深南大道の話題を語る人は少ないはず。もし、あるとするなら、「大渋滞」、「交通事故」、「道路工事」、「高層ビルが謎の揺れ」などの問題のついでで語られる程度である。
そこで、今回はこの道の偉大さと歴史を“問わず語り”させていただく。
深セン市中心の東西を突き抜ける幹線道路、全長は25.6キロ、羅湖、福田、南山区を繋ぐ大動脈である。
深南大道は深セン特区の座標軸として、深セン市40年の歴史を共に歩んできた。79年から93年までの14年をかけて全線貫通。その後から今も、どこそこかで大工事が行われている。(まったく、いつ工事がなくなるんだ?)
狭い小さな漁村だった深センが、北京、上海、広州のような大都市の仲間入りをした時、この道路建設の効果は、中国の他の地域を都市化させるモデルとなったと言っても過言ではない。
1979年深セン市が成立した後、蔡屋囲から上歩工業区までの砕石路面にアスファルトを敷き、工事が始まった。
1980年、深南路の第1段が開通。全長2.1キロ、幅7メートル、片道1車線。当時、国内経済特区で最も長い距離だった。
1984年、深南通りが正式に開通、簡単な緑化も行われた。深南通りの周囲の商業店舗群も建設中。初代の市庁舎や、初の象徴の国貿ビルもまだ建设中であった。
80年代後半、道路は引き続き、福田区から南山区まで延長。当時の福田区中心付近は湿地帯が拡がっており、深南通りの傍らは多くの溝や沼が行く手を遮り、歩行が大変だった。
「家を出て、丘を越えて、竹林を抜けて、河を渡って、沼を横切って、深南通りを歩いたほうが隣の村まで行くのに速くなった。」という笑い話を聞いたことがある。
1989年11月、筆者は初めて深センにやってきた。香港からバスで昼の12時にイミグレ(皇崗口岸だったと思う)に到着したのだが、当時は2時まで昼休みで入国審査できず(2時間待たされたわ!)。
初の深南通りとの出逢いである。窓が開け放たれたバスに乗り、(穴ボコだらけのガタガタの)舗装道に揺られながら、途中何度も“牛たちの道路横断”のためにストップしながら、粉塵覆う中を目的地に着いたときは、西の空は夕焼けのセピア色に染まりつつあり、白シャツは灰色に汚れ染まっていた。
今なら20分で着くところ、当時は2時間はかかったと思う。深南通り沿いから眺められて近くにあるが、歩くと遠くにあるローカル食堂に到着。店の玄関へ入るには、いくつかの木板の渡しを(スリル満点で)歩いた(木板の下は湖のような大きな溝)。やっとの思いで、遅い昼食にありつけた。
後日知ったのだが、その店、当時は有名なレストランであり、広東料理の味がとても美味しかった(なぜか北京飯店という店名だった)。
この当時、まさか12年後に深センに住むとは、夢にも思わなかった…(次回へつづく)。
深セン在住20年のベテランコンサルタント
宮城 紀生
miyagi@waya.net.cn
深セン華日(ワーヤ)コンサルティング
会社設立・運営、法律相談、会計財務税務
深圳市福田区深南大道6021喜年中心A610