MTR「New Area特集」啓徳・九龍城・土瓜湾・大圍

2021/10/20

去年2月14日啓徳(Kai Tak)駅と顕径(Hin Keng)駅が開業し、馬鞍山線が屯馬線一期として延長された。
その後今年6月27日に土瓜湾(To Kwa Wan)駅と宋皇臺(Sung Wong Toi)駅が開業となり紫色の西鉄線(屯門~紅磡)と屯馬線一期が併合、兼ねてより計画されていた屯馬線全線が開通、新界エリア~九龍エリアを東西に横断する新路線が、より一層生活を便利にしてくれる。今回は新規開業した駅の周辺事情にフォーカスしてみた。


【啓徳】

啓德郵輪碼頭  Kai Tak Cruise Terminal

かつての「空の玄関」は、今、世界の豪華客船を迎える「海の玄関」に!

4 現在の香港の国際空港といえばランタオ島(Lantau Island)にあるチェクラップコク空港(Chek Lap Kok)だが、香港にはかつて1925年から1998年まで稼動していた世界一着陸が難しい(高層ビルすれすれで飛行高度を落とす「香港カーブ」はあまりにも有名だった)と言われた国際空港、啓徳空港(Kai Tak Airport)が存在していた。ビクトリアハーバーにせり出すように面していたこの空港は今では「啓徳クルーズターミナル」へと生まれ変わり、世界中から豪華客船を受け入れ、海の玄関口としての役割を担っている。

スクリーンショット 2021-10-20 084257 2013年に建てられたクルーズターミナルはビクトリアハーバーを眺めることができる好立地な場所柄、からの観光客を虜にしてきた。1階は駐車場とオフィス、2階は入国管理局、最上階には公園が広がっている。カフェやレストラン、ショップ等も充実しており、さらにはヘリコプターターミルまで併設されており、VIP達がビクトリアハーバーを臨むために訪れることも珍しくない。近代的な曲線を描く建物は環境を考慮してソーラーパネルが取り付けられており、さらには植物緑化に活用すべく雨水を保管する装置も擁している。

 現在は情勢の問題もあり旅客便は出ていないが、香港籍の世界最大級豪華クルーズ船「World Dream」の母港ということもあり、海外への行き来が従来通り可能になれば、また来場客で賑わいを取り戻すはずだ。

場所:Worldwide Cruise Terminals(Kai Tak Cruise Terminal, 33 Shing Fung Rd., Kowloon)
電話:(852)3465-6888 時間:9:30~18:00(祝日を除く)
ウェブ:www.kaitakcruiseterminal.com.hk アクセス:啓徳駅D出口より22または22Mバス


空中花園 Sky Garden 1331

スクリーンショット 2021-10-20 084322 今年5月21日に旧啓徳空港跡地にオープンしたばかりのガーデン。滑走路跡を有効活用し、湾曲した波型の遮音壁を持つユニークな構造で、長さ約1.4km、面積約2ha。将来的には北側のメトロパーク、南方のクルーズターミナル等の近隣施設と繋がった広大な開発区になる。空港跡地の名残を残し航空をテーマにしたガーデンは、四季がテーマの4ゾーンに分かれ、80種以上の樹木が植えられており、地元の植物の多様性も紹介されている。園内にはガーデンプラザ、芝生広場、噴水広場の3つの広場と、南側のグラウンドプラザには娯楽に利用可能な円形劇場があり、11月30日まで各チェックイン地点でAppを使った3D写真撮影を楽しむことができる。

ウェブ:skygarden1331.hk アクセス:啓徳駅D出口より22または22Mバス


九龍の名の由来

 「九龍」という名前の由来は、宋王朝の滅亡の物語と関係があるという。元の時代(1277年)、宋皇帝は左大臣を伴って広東に船で逃れ、九龍湾に上陸したという。当時の村人たちは宋に忠誠を誓っていたが、宋皇帝や大臣たちに相応しい住まいが無かった。そこで、海辺の岩山に適した場所を見つけ、「臨時宮殿」という仮の宮殿を建てた。ある日、宋皇帝は周りの山々を見渡している際「ここには8つの山があり、それぞれに龍が住んでおり、全部で8つの龍がいるのだろう。」と左大臣に尋ねたところ、「九つの龍がいるはずです。」と左大臣は答えた。若き皇帝には意味が分からなかったが、「皇帝は天の子であり、真の龍が地上に降りてきたのだから、即ち九つの龍が存在しているのです。」と続けて説明した。それ以来、この地域は「九龍」と呼ばれるようになったそうだ。


上帝古廟 Sheung Tai Temple

HK_LomondRoadRestGarden_KwuKanWai 南下した宋の二人の皇帝は九龍官富場(政府が管理してた塩田)に移り、「二王殿」という宮殿を建てた。宋皇帝が九龍に在住したのはわずか6ヶ月間で、その後は別の場所に移ったが、すぐに二王殿は破壊され、柱と土台の石だけが残った。二王殿があった村は、現在の馬頭囲のエリアにあったとされ「二王殿村」と呼ばれていた。1920年代に都市開発のために取り壊され、現在はその歴史をたどることは困難な状況。

 また、「新安県志」によると、宋皇帝が九龍を離れる際、一族や大臣の一部は留まり現在の馬頭囲周辺に身を隠し、「古瑾囲」と呼ばれる村を作ったという。その後、村人たちは、現在の露明道(Lomond Road)にある宮殿の跡地に「北方真武玄天上帝」と呼ばれる北帝(神の一人)を祀る「上帝古廟」を建てた。万が一敵対する元軍に「宋皇帝」に関係する建物と勘違いされ破壊されないよう、「北帝」の名は使わないようにしたという。

 清朝雍正期(1722年)以降、中国大陸から村人が大量に移住し、清朝光緒期(1875年)には、そこに住んでいた越氏の子孫が次々と東莞に移住したため、古瑾囲は取り壊され馬頭囲という名前に変わった。上帝古廟は荒廃し、土台や柱、石に刻んだ対句が残っているだけであった。1962年、政府は上帝古廟の跡地に小さな公園を造った。開会式では、香港中文大学の終身主任教授である饒宗頤が古瑾囲の歴史についての記事を書き、「九龍古瑾囲上帝古廟遠址関建公園記」と題した石版を彫った。現在残されているのは、石の門と土台だけで、石の門の上に「上帝古廟」、そして左右の対句には「真義著千秋、煌煌氣象;武功昭萬古、赫赫聲靈」と彫られている。


宋王臺 Sung Wong Toi 

スクリーンショット 2021-10-20 084341 伝説によると宋皇帝とその弟は、元軍から逃れるために何千人もの兵士に護衛されて九龍城に辿り着き、九龍城の丘に隠れたという。街は小さな漁村だったが後に海上交通が広がり、大規模な塩市場となった。宋皇臺駅の近くで発掘された宋時代の四角い井戸などが、当時の九龍城の繁栄を物語っている。宋皇帝の死後、地元の村人たちは彼が避難していた丘から巨大な石を持ち出し、「宋王臺」という記念碑にした。元々「宋王臺」はかつて啓徳空港エリアにあった「聖山」と呼ばれる丘の上に聳え立っていた巨大な石であったが、戦後、「聖山」は啓徳空港計画のために取り壊され、その際に現在の宋王臺公園のある場所に移されて「九龍宋皇台遺址碑記」という記念碑になった。香港国際空港がランタオ島に開港以後、啓徳空港が廃港になり、この石碑は当初あった「聖山」跡地に戻す計画が何度も取りざたされている。

住所:Ma Tau Chung Rd., Kowloon City


侯王古廟 Sheung Tai Temple

IMG_0980 2014年に歴史的建造物に指定され、九龍で唯一「侯王」を祀っている寺院。建立年は不明だが、寺院内の古鐘から考察するに、200年以上の歴史があると言われている。侯王とは「宋皇帝の不眠症を治した人」や「宋の兵士を助けた楊家の祖先」、はたまた「宋皇帝の叔父に当たる「楊亮節」」ではないかと言われている「楊氏」。宋皇帝は「楊氏」の助けを借りて九龍に南下したことからその功績を称えてこの寺院を建てた。

 侯王廟は南宋末期から元朝初期にかけて、「楊亮節」を記念する茅葺きの小屋として存在していた。これまで3回の改修工事が行われ、2005年の大規模改修の際には、「詩の広場」や「願いの館」などの新しいエリアが追加され、2006年にリニューアルオープン。その他、観音菩薩、太歳、諸仙菩薩、諸仙菩薩と三宝佛などが祀られている。本堂に入ると、中央に祀られている侯王像を見ることができ、慌ただしい街の中では珍しい、静寂の訪れる廟だ。

住所:Hau Wong Temple, 130 Junction Rd., Pak Hok Shan 時間:8:00~15:00


福佬村道 Fuk Lo Tsun Rd

スクリーンショット 2021-10-20 101717 九龍に逃れた宋の最後の皇帝は、丘の上にある宮殿に住んでおり、護衛兵士たちは麓に住んでいた。その場所には、福佬村道という通りがある。皇帝を九龍まで護衛したのは、この福建省人だったと言われている。皇帝が福建省に逃げたとき、福建省人の一団がさらに南へと護衛してここに連れていき、村を創ったことから「福佬村」という名前になった。九龍城の「福佬村道」と長洲の「鶴佬巷」はこの物語と繋がっているという。彼らはその後、南宋末期まで皇帝を長洲経由で崖山に護衛していた。長洲に到着した人たちの中には、一部の人は崖山に行かず、長洲に隠れてから根付いた人たちがいたという。あくまでも伝説である。


衙前圍村 Nga Tsin Wai Tsuen

スクリーンショット 2021-10-20 084437 取り壊された衙前圍村の「衙前」という名前は「役所の前」という意味。衙前圍村が設立されたのは1952年、吳、陳、李の3つの苗字の祖先は、南宋時代の最後の皇帝の従者で、皇帝と一緒に九龍まで南下してきたと言われている。衙前圍村の正門の上にある花崗岩の石碑には、宋の皇帝の直筆といわれる「慶有餘」の文字が刻まれている。「溢れんばかりの繁栄と栄光」という意味である。

 2006年には、遺跡保存の専門家チームが調査を行い、新旧デザインを融合させて村を保存することを提案。2007年にプロジェクトが開始され、かつての村の正門、そして正門に設置してある「慶有餘」の石碑と天后廟を可能な限り現存のまま保存し、これらの工事は2023/24年に完了予定だ。


【在宋皇臺】

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かつて「魔窟」があった街

 啓徳空港の滑走路を正面にとらえようと、旅客機が「香港カーブ」を曲がりきるその下で、実存しつつ伝説を体現し続けていた「九龍寨城」は、今からちょうど20年前、その姿を消し、云わば「純粋な伝説」となった。伝説は時にひとり歩きを始める。

 猥雑で妖しく、危険でアナーキーなイメージは、九龍寨城の城壁を越え、九龍城という名のこの街すら呑み込んでしまったかのようだ。

 ともすればいまだに「九龍城=九龍寨城」と誤解されなんとなく怪しげな街のレッテルを貼られてしまう九龍城の素顔は、高さ制限された旧い街並を残す、庶民の街だ。

 今は上空の騒音も、航空燃料の排ガスの臭いもなくなったこの街にタイ料理の名店を訪ねて、潮州打冷を体験しに、週末、ぶらりと出かけてみてはいかがだろう。

九龍寨城とは?

スクリーンショット 2021-10-20 085518 九龍城といえば、かつて「一度入ると二度と出て来られない」などとも言われたほど、カオスの象徴として伝説的な存在となっている。

 一般的には、「九龍城砦」と呼ばれてきたが、正式名称は「九龍寨城(きゅうりゅうさいじょう)」。

 

 

 

スクリーンショット 2021-10-20 085530 1993~1994年に当時のイギリス・香港政庁によって解体工事が行われたが、この時見つかった石製の大きな扁額(へんがく)によって「九龍寨城」という名称が明確になった。

 同時に見つかった砦時代の大砲の砲身などは、貴重な文化財として、現在は九龍寨城公園内の資料館に保管されている。

 

 

 

スクリーンショット 2021-10-20 085549 香港に限らず日本、ひいては世界にまでその名を轟かせ、香港の「イメージ」形成にも大きく影響している、かつての「魔窟」はどのように生まれ、成長し、そしてどのように消えたのか…。簡単にその歴史を辿ってみよう。

 

 

 

 

軍事要塞から不管理地帯へ

 始まりは、香港付近の海域にしばしば現れる海賊から守るため、現在の九龍城地区に軍事要塞が作られたことによる。イギリスが香港を支配する200年以上前のこと。当時の海岸線は現在よりずっと陸地側に入り込んでいたのだ。ここを拠点に香港の安全の確保を図るため、砦として1668年に九龍烽火台が設置された。その後、イギリスがアヘン戦争に勝利すると、南京条約により清国から香港島の割譲を認めさせ、北京条約により九龍市街の界限街以南の九龍半島が割譲された。この時点で九龍城砦はイギリス領よりわずかに外れた場 所にあり、清国領内であった。

 1898年、イギリスが清国から香港島や九龍に隣接する新界、及びランタオ島をはじめとする香港周辺200余りの島嶼部を99年間租借する事を決定した際、九龍城砦は例外として租借地から除外され清国の飛び地となる。後にイギリスの圧力で清国の役人らが追放され、その後中国大陸が清国から中国国民党率による中華民国となった以降も、事実上どこの国の法も及ばない不管理地帯となったのである。

難民が流れ込みスラム街として肥大

 1941年に旧日本軍が香港を占領した際、要塞に建設されていた城壁は、近隣の啓徳空港拡張工事の資材となり取り壊された。この期間、九龍城砦に関するイギリスと中華民国との管理交渉は中断。戦後、香港は再びイギリスの植民地となるが、経済や治安など生活上全ての面で香港自体が不安定な状況にあった。そして1949年の中華人民共和国成立に伴い、香港政庁の力が及ばないこの場所に中国大陸からの難民がなだれ込みバラックを建設、その後スラム街として肥大化していく。

ビルが密集した街の中には…

スクリーンショット 2021-10-20 085602 建物は、1960~1970年代に高層RC構造建築へ建て替わるものの、無計画な増築による複雑な建築構造と、どの国の主権も及ばずに半ば放置された環境から「東洋のカスバ」、「東洋の魔窟」と呼ばれるほどに。

 街は1980年代に全盛期を迎え、2.7ヘクタールの敷地内に500棟ほどの違法なビルが建ち、人口は4万人に達した。学校、教会、病院なども揃い、20~30の小路と数百もの抜け道が存在したという。中でもDentist Streetには、100を超えるライセンス不所持のクリニックがあったという。もちろんオフィシャルな水の供給もなく、人々は井戸を造成。それも近隣のビルに引かれている水道管に接続したものであったり、個人的に水を購入したりと様々だが決して安全な水ではなかったと言われている。

スクリーンショット 2021-10-20 085615 居住空間は、2または3ベッドルームの200~500スクエアフィートほどで、大きいユニットは、家族でシェアして暮らしていたという。

 また、政府登録や税金が不要なため食品加工会社が多く設立され、その中でもフィッシュボールに関しては、当時香港内に流通する80%がここで作られていると言われたほどの繁栄をみせた。

ついに香港政庁が取り壊しを発表

 英中共同声明により香港が1997年に中華人民共和国に移譲、返還されることが確定すると香港政庁が九龍城砦を取り壊し、住民を強制移住させる方針を発表。1993~1994年にかけて取り壊し工事が行われ、その後すぐに行われた再開発で九龍寨城公園が造成された。現在、公園内には資料館が建ち、昔を今に伝えている。


 九龍寨城公園

落ち着きのある中国式庭園に大変身!鳥のさえずりに耳を傾け歴史散策してみては?

スクリーンショット 2021-10-20 085634 九龍寨城のビル郡が取り壊された後、政府は、今までのその暗いイメージを払拭するかのように直ちに公園を整備した。そして、1995年12月に清王朝初期の庭園スタイルを特徴とする「九龍寨城公園」が、一般市民へ開放されたのである。公園の中心に資料館を設け、その周りに、回廊、池、チェスガーデンなどを造成。現在では近隣住民の憩いの場所となっている。回廊で友人と立ち話をする人、ベンチに腰掛けて休憩をする人、追いかけっこをする子供たちがいたりと緑溢れるオアシスのような空間が魅力だ。

 

 

スクリーンショット 2021-10-20 085647 メインとなる南門をくぐるとすぐ公園の記念碑があり、その裏には、ビル郡が所狭しに並んでいた時代の模型を設置。門の脇には、1843年に清王朝によって九龍寨城が建設された当時の門の跡「南門懐古」が残されている。

 ここを訪れたら「衙府」は見逃せない。当時の古代建築物として唯一残る貴重な建物で、年表や当時の写真、大砲が飾られ古い歴史を学ぶことができる。さらにその建物の奥には展示館があり、シアターのような1つ1つの小部屋を巡り当時の様子を伺うこともできる。写真からは当時の人々の生活風景が垣間見えるが、中でも無数のアンテナが立つ屋根の上で遊ぶ子供たちの写真は印象的だ。

スクリーンショット 2021-10-20 085659 そこから東に抜けると、中国上海にある「豫園」のような回廊と「邀山樓」があり、タイムスリップした感覚にさせてくれる。続いて西側へ移ると、さまざまな形をした穴の空いた奇石、龍の形をした植木、池などがあり綺麗に整備されているのが感じ取れる。地面に描かれた石のアートにも注目してみよう。敷石の装飾は大変素晴らしく、その中でも鶴を表した石絵は見事だ。

 池の周辺を歩き、高台にある回廊に上がるとそこには「九龍城歴史圖片廊」があり、九龍城の歴史を紹介するの写真が展示されている。貴重な写真が1枚1枚並び、写真の下には説明文が記載されていて、当時の面影とともに歴史を学ぶことができる。またその壁には、独特な模様の透かし窓も開けられており、中国の趣も感じられるだろう。香港にいるなら1度は訪れてほしい場所であり、休日の息抜きにももってこいの場所だ、この機会に足を運んでみてはいかがだろうか。

住所:Tung Tsing Rd., Kowloon City 電話:(852)2716-9962  時間:6:30~23:00
展示館:10:00~18:00(水曜休館)  ウェブ:www.lcsd.gov.hk


獅子石道 Lion Rock Rd. Kowloon City

スクリーンショット 2021-10-20 085714 潮州料理とタイ料理、火鍋店など、多くの飲食店と食材店とが軒を連ねるここ九龍城界隈の中で、この獅子石道(ライオン・ロック・ロード)の様相は、他と少し趣きを異にする。

 この通りにずらりと並ぶのは、懐かしの「洋品店」的たたずまいの衣料品店の数々なのだ。

 九龍城と洋服屋さん? さて、その理由とは…。九龍寨城は植民地時代、イギリス政府の統治を唯一免れていた地域だ。激安の日用品を多く取り扱えていたことから「リトル・スタンレー・マーケット」と呼ばれていたが、当時から九龍城街の獅子石道は衣料品が安く手に入る一大ファッション街として知られていた。卸売り店も多数軒を連ねる獅子石道では、現在でも流行ファッションからパーティードレス、さらには小さな子どものデイリー服まで、幅広い層の衣料品が市場価格よりも割安な値段で売られており、幅広い客層の人気を呼んでいる。

スクリーンショット 2021-10-20 085729 ファッション通りとして名を馳せ始めたのは1980年代、輸出向けの衣料品が業績を伸ばし始めてからだ。当時はまだ衣料品ブランドが映画界のスポンサーとして活動することが稀であったため、俳優やアーティスト達はレースのペチコート、スパンコールドレス、シフォンドレスなどの舞台に上がるための衣装を自分達で用意する必要があった。驚くべきことに、「アジア映画界の帝王」の異名を持つ香港実力派俳優チョウ・ユンファも、かつて自身初の主演男優賞に輝いた授賞式で着ていた服はライオン・ロック・ロードで購入したものだというエピソードを披露している。この通りはあらゆるファッションニーズに応えてくれるだけの品揃えの多さを誇っているのだ。

 今でも獅子石道の店舗群は香港の衣料品業界に影響を与え続けている。学生やファミリー層だけでなく、海外からの観光客や買付け業者をも虜にしている同ストリートは、これからも「安くて可愛い」ファッションを発信し続けてくれることだろう。


\宋皇臺ローカルレストラン4選/

清真牛肉館
これまで数々の賞を受賞してきた人気の名店

IMG_4566 九龍城といえば誰でもタイと潮州の料理店を思い浮かべるが、実はそこに有名なイスラム料理店もあったのだ! 1950年から始めたという歴史を持つ同店は、今まで多くの賞を授けられている。いったい何がそんなに人気なのか? 理由はこの店の牛肉餅(牛肉パイ)。カリカリの皮と肉汁たくさんの中身、そして完璧な調味は、香港一と言っても過言ではないほど。

スクリーンショット 2021-10-20 085807住所:G/F., 33-35 Tak Ku Ling Rd., Kowloon City
電話:(852)2382-1882


合成糖水
50年の歴史を持つ、安ウマ潮州デザート

IMG_4577 1950年代の九龍寨城の「繁栄」から70年、なにもかもが変わってしまったが、その中に今も全く変わらない店がある。龍崗道の「合成糖水」がそれだ。メニューは店の名前のとおり、「合成」した「糖水(デザート)」、数種類の材料の中から自分で好きな物を選び、一つに混ぜるというもの。50年の歴史を誇るこの店、潮州定番の「清心丸(タピオカの様なもちもちしたもの)」は試してみる価値大。組み合わせがよくわからない場合、最初は定番の伝統デザートから味わって、追々好きな味を見つけてみよう。

IMG_4569住所:G/F., 9 Lung Kong Rd., Kowloon City
電話:(852)2383-3026


金寶泰國菜館

「甘味」「酸味」「辛味」の絶妙なバランスが魅力的なタイ料理

スクリーンショット 2021-10-20 085827 1991年開業、タイ料理店の先駆け時代から運営している同店。長きに渡り香港人の間でも人気を博している。オーナーは伝統的なタイ料理のみならず、ベトナム料理にも精通しており、すぐ隣にベトナム料理店を開店し、2店舗でタイとベトナムを味わう事ができる。ShrimpPaste in Stuffed Shrimp Balls(海老餡入り海老団子)は、海老の身にさらにすり身を加えて揚げる、海老の旨味尽くしの逸品。

スクリーンショット 2021-10-20 085840住所:25 Nga Tsin Long Rd., Kowloon City
電話:(852)2716-7318
時間:月~日 11:30~23:30


金泰沙冰
タイ串焼きで人気を集める名店

5 タイ風の串焼き(サテー)は、サクっと食べられるファストフードだ。一般的に豚、牛、鶏、海老、魚、タイソーセージなどの具材があり、ココナッツ香る甘辛いサテーソースと、ナムプラー・ねぎ・レモングラス・ライムなど辛味と酸味のスパイシーソース。おおよそHKD13~15で、手軽に楽しむことができる。

スクリーンショット 2021-10-20 085854住所:Shop A2, No. 21 Nga Tsin Wai Rd., Kowloon City
電話:(852)2716-7828
時間:月~日 12:00~26:00、水休


【土瓜湾】

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 九龍城地区の南部に位置する土瓜湾は、湾に浮かぶ島「海心島」がかつてサツマイモ(=土瓜)のような形をしていたことから名付けられた。1960年代、土瓜湾は軽工業地帯として開発され、九龍城道や馬頭囲道沿いに工場の建物や住宅の作業場があった。その後、香港の製造業の衰退に伴い、多くの工場が北に移転し、この地域の多くの工場の建物は、グループツアーのためのショッピングの場所になった。ほとんどの店が土瓜湾道に集中しており、漆咸道北から馬頭囲道までのエリアには、多くの家具店が集まっている。1998年に啓徳空港が閉鎖された後、土瓜湾は継続的な再開発が行われ、新しい民間住宅団地が完成した。残った工業用テナントは新蒲崗、九龍湾、觀塘に移転し、この地域の古い商店は高い賃料のために閉鎖された。そのため、2014年から土瓜湾にコミュニティ組織が拠点を置き、ガイドツアーやコミュニティトークを開催して、保全に対する一般の人々の意識を高めている。現在の土瓜湾は未だに古い建物が多く、開発可能な土地が少ないため、再開発には時間がかかるそう。

 アクセスの悪さから謎に包まれていた九龍城地区だが、実はこの古い地区に多くの個人商店やレストランがある。土瓜湾駅の開通により、このエリアへのアクセスはさらに便利になった。また、駅のロビーには100人以上の近隣住民から寄せられた写真や物語が展示され、土瓜湾の歴史を知ることができるほか、多くの住民の思い出が集約されていて、一見の価値がある。


牛棚芸術村 Cattle Depot Artist Village

スクリーンショット 2021-10-20 091312 土瓜湾でアートや文化に触れたい方は、牛棚芸術村を訪ねてみてはいかがだろうか。十三街唐楼に隣接する牛棚芸術村は、アートスタジオの貸し出しを行っている。現在、多くのアーティストやアートグループが入居しており、定期的に展覧会やワークショップが開催されている。住宅と工業用ビルの間に位置するこの歴史的な赤レンガの建物は、土瓜湾の最も重要なランドマークの一つで、以前は政府が管理しており、一般的には公開されていなかったが、2011年に開発局が管理を引き継いでから一般公開されている。毎日10時から22時まで無料で見学可能。

 1908年に建築された牛棚は、戦前の香港に残る唯一の殺場であり、
1999年には正式閉鎖された。2001年に政府は、北角油街芸術村にいる地元の芸術家たちによって家畜檢疫所を修復し、「牛棚芸術村」と改名した。2009年、牛棚は香港政府によって「第二級歴史建築」に指定されている。当時の名残を残す独特な雰囲気の芸術村は、建物として歴史の価値も高く、修復作業によって今は新しい感覚で芸術を楽しむことができる場所だ。

住所:63 Ma Tau Kok Rd., To Kwa Wan 電話:(852)2364-2959 時間:10:00~21:00


高山劇場 Ko Shan Theatre

スクリーンショット 2021-10-20 091326 高山劇場は、高山道公園に建てられた「公園内の劇場」である。1983年のオープン以来、多くの人に利用されている。より良い施設を提供するために、1995年には劇場の改修工事が行われ、1996年にリニューアルオープン。オープンエリアの劇場から、1000人以上の観客を収容できる全天候型の屋内劇場に生まれ変わった。空調設備に加え、洗練された舞台照明や音響システムを備えており、あらゆるパフォーマンスに最適な会場となっていて、毎年ランタン・カーニバルや中秋節のランタン・フェスティバルなど、数多くのイベントが開催されている。また、この劇場は中国のオペラ公演の主要な会場でもある。2010年、中規模の劇場と、広東オペラ関連のリハーサル、トレーニング、その他の活動のための施設を提供するため、高山劇場別館の建設を開始し、2014年にオープン。別館の完成により、著名な広東オペラ公演、トレーニング、リハーサル、研究の場として機能がさらに強化された。

住所:77 Ko Shan Rd., Hung Hom 電話:(852)2740-9222
時間:9:00~23:00 ウェブ:www.lcsd.gov.hk/en/kst


東方紗廠 Eastern Cotton Mills

スクリーンショット 2021-10-20 091346 東方紗廠は、1950年代に萬春氏と傅老榕という2つの家族によって設立された。1981年に閉鎖された後、2006年に所有者が変わり、2010年には「第三級歴史建築」として登録された。しかし、所有者と政府の間で保存案の合意が得られなかったため、最終的にこの前面のみが残された。東方紗廠は直角のガラス窓が特徴的なモダニズムの建物で、その時代に合わせて補修されたことが人気に繋がっていたが、所有者の判断と政府の無関心な扱いにより、歴史的な建造物が廃墟になってしまった。

住所:7 Mok Cheong St., Ma Tau Kok


海心公園 Hoi Sham Park

スクリーンショット 2021-10-20 091400 土瓜湾の落山道の端にある公園。以前は海心島として知られていて、小さな島には海心廟があり、当時は海産物の観光地として人気を集めていた。1962年から1970年にかけて土瓜湾で大規模な埋め立て工事が行われ、1972年に海心公園がオープンした。スクリーンショット 2021-10-20 091414島にはギザギザとした岩の「魚尾石」と「海心石」が保存されており、そこを訪ねると良縁に恵まれると言われている。魚尾石の前を歩くと、海に向かって伸びる九曲橋から海心亭が見えてくる。そこにある「海心亭具西湖韻,魚尾石全此地靈」という詩は、夕暮れ時の土瓜湾の海辺を表現している。

住所:Yuk Yat St., To Kwa Wan 時間:7:00~23:00


土瓜湾天后廟 Tin Hau Temple

スクリーンショット 2021-10-20 091427 下郷道と落山道の交差点にある土瓜湾天后廟は、1885年に建てられ、清朝の光緒時代に遡る寺院。政府により「第三級歴史建築」と指定されている。土瓜湾が埋め立てられる前は、土瓜湾の海傍に天后廟があり、当時、海辺の住民は「天后」を崇拝していて、「天后」は非凡な力を持つ女性で、しばしば海に出てきて困っている人を助けると言われていた。土瓜湾天后廟は100年以上前に建てられたもので、当時の面影を残している。寺院が建てられたときの鋳造された銅鐘が今も残っており、正面の扉に書かれた「天后古廟」の文字は、寺院が建立されたときから保存されている。寺院には、観音様の他に、もう1人の神である龍母も祀られている。元々は九龍城の海心廟に祀られていたが、1960年代の都市開発により寺院は取り壊され、本尊は土瓜湾天后廟に移されている。

住所:49 Ha Heung Rd., To Kwa Wan
ウェブ:www.ctc.org.hk/b5/directcontrol/temple11.asp


十三街唐楼 13 Streets

スクリーンショット 2021-10-20 091443 牛棚芸術村を出ると、カラフルな唐楼が延々と並んでいて、近くの近代的な建物とは対照的に、レトロでスタイリッシュな印象を受ける。これが一般的に知られている「十三街唐楼」であり、馬頭角の旧市街を形成する13の通りの集まり。区の北側の道路である木廠街、南側である馬頭角、そして西から東へとまっすぐに伸びる龍圖街、鳳儀街、鹿鳴街、麟祥街、鷹揚街、鵬程街、鴻運街、蟬聯街、燕安街、駿發街、鶴齡街の11本の通りである。その11本の通りの名前は、いずれも中国の伝統的な吉祥文様を持つ動物を語頭に持ってきているのが面白い。

 十三街唐楼は1950年代に開発されたもので、同じ開発者によって建てられたため、中の建物は似たようなレイアウトになっていた。また、旧啓徳空港に近いため、航空機の移動の安全性を考慮して、九龍城道に面した7階建ての建物を、反対側の土瓜湾道に面した5階建てに減らした。この十三街には、約200のガレージがあり、約1000人が働いているといわれている。2010年にはファサードの改修が行われ、色とりどりのペンキが塗られて新しい姿になった。

住所:15 Pang Ching St., Mau Tau Kok


益豐大廈 I-Feng Mansion

スクリーンショット 2021-10-20 091457 土瓜湾道と浙江街の間に位置する益豐大廈は、「トランスフォーマー4」「コンフィデンスマンJP」「ドリフト(順流逆流)」などの映画の舞台となった。元々はケトルを製造していた益豐搪瓷会社の工場の跡地で、4つの建物には1950年近くに建てられた工業用、商業用、住宅用の建物が混在している。カラフルで圧迫感のあるこの建物は、世界中のディレクターだけでなく、多くの観光客をも魅了している。なお、益豐大廈は観光地ではないので、住人の方の日常生活に支障をきたさないよう、お静かに。

住所:237-239A To Kwa Wan Rd., To Kwa Wan


三宝不動産の鶴見さんに訊いた

土瓜湾ってどんな街?

MTRの開通に伴い、これまでの姿から変貌を遂げつつある土瓜湾。
今回は、香港返還前の1996年に来港し、今年で在住25年を迎えた三宝不動産(九龍支店)の鶴見 国光さんにご協力いただき、街歩きをしながら、変わりゆくエリアについての詳細を伺った。


MTRの開通に伴う土地相場の変化はありますか?

 今年6月の延線として「土瓜湾」と隣駅「宋皇臺」がともに開通しました。土瓜湾駅に屯馬線周辺の住民は、これまで主な交通手段としてバス・ミニバスを利用しており、幹線道路から各方面に移動が出来る路線が多く、地元民にとっては非常に便利な地区です。そこに駅が開通したことで移動範囲が格段に広がりました。コロナ禍の影響はあるものの、賃貸住宅の家賃相場は駅ができる前と比較して3~5%の上昇が見受けられます。

先の質問に関連して、邦人の居住区の変化も見受けられますでしょうか?

 土瓜湾駅の建設は2012年末以降、駅周辺の都市開発工事が一気に進み、古いビルの解体工事跡地に新たなマンションが建築されるようになりました。今回、紹介したマンション(2012年12月竣工の「CHATHAM GATE」から2021年5月竣工の新築「THE VANTAGE」までの計10物件)で、スタジオタイプ(開放式)~4寝室まで幅広い層に適した「CHATHAM GATE」以外はすべてスタジオタイプ~2寝室のマンションになります。

 駅周辺では、日用品や食材の買い物、食事は地元の商店やレストランを利用することになりますが、バスに加えてMTRで移動できる範囲が格段に広がったので、単身者、ご夫婦向けに紹介出来るマンションが増えました。香港生活にある程度慣れた日本人の方々にとっては、将来の引越し先をご検討される際に一つの候補としてお勧め出来る地区に変貌していくと思います。

 また、従来の香港の住宅形式同様、新築マンション階下の路面店舗ではテナントを募集しております。弊社はそれぞれのマンション発展商との繋がりを構築できていますので、土瓜湾駅周辺に新築されたマンション階下の路面店舗に出店をご検討されるお客様への仲介も対応できます。

過去・現在・今後の展望について教えてください。

 駅周辺は、以前から階段で上り下りする“唐楼(Tonglau)”と呼ばれる低層階の古い建物が多い商業街・住宅街として知られていました。住宅は大家族が住める広さの間取りで、窓の外に洗濯物を干す昔ながらの住宅風景を懐かしむ方も多くいらっしゃると思います。

 隣近所とは子供世代も含めた家族同士の付き合いがあり、商店街では店同士の付き合いがあり、近年希薄になりつつあるご近所付きあいが色濃く残っています。地域の公園では子供たちが遊んでいる微笑ましい雰囲気にも遭遇しますし、家族経営のこぢんまりした地元民に親しまれているレストランも多く、そういったところでの食事も楽しみの一つですね。

 また、海外からのバックパッカーが利用する宿もあり、香港好きのバックパッカーの間では「聖地」とも呼ばれています。

 弊社オフィスから土瓜湾駅へは徒歩10分程で移動できるので、私も駅を利用して各地に移動する機会が増えました。その際、駅前で長年衣料店を営むお婆さんと接点ができ、挨拶がてら駅が開通した印象を聞いてみたところ、「若い世代にとっては便利でしょうが、我々のような年寄りにとっては、親しい友人が長年住んでいた家を取り壊され他地区に引っ越したりと、寂しいね」と感傷に浸ってました。

 駅周辺には現在でも竹の足場で覆われた古いビルが存在しています。今後、これらの古いビルは解体され、跡地にマンションや商業ビルが建設されるようになります。香港のどの時代でも、その時々に都市開発された地区の住民が直面してきた風景が今まさに存在しています。


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鶴見 国光さん
静岡県浜松市出身。1996年に日系製造業の香港販社の駐在員として来港し、2016年より三宝不動産に加入。香港不動産代理の営業員・経営者の両資格を取得後、2019年2月より九龍支店を設立。趣味は香港人の妻とのカラオケ。息子とのビリヤード、卓球とスポーツ観戦。

 

 

 

三宝不動産

住所:WS51, Unit 24, 2/F., Block B, Focal Industrial Ctr.,21 Man Lok St., Hung Hom Rm. 1003, 10/F., Marina House, 68 Hing Man St., Sai Wan Ho
電話:(852)2566-0478、(852)9866-3397(WhatsApp可)、
(852)2566-0155(香港店)
メール:info@sanpou-kowloon.com.hk

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スクリーンショット 2021-10-20 091640\土瓜湾の住民インタビュー/

一ノ瀬 シンジさんに聞いてみた

 

 

 

 

まず、お仕事や家族構成を教えてください。

 尖沙咀(チムサーチョイ)で日本語のカラオケボックス「MusicBox」を経営しています。妻と7歳の娘、3歳の息子の4人暮らしです。

土瓜湾に住み始めてどのくらいですか。また、経緯も教えてください。

 本格的に香港での生活を始めた2004年年当初は、経営する店舗や通っているジムへの利便性を重視してチムサーチョイに住んでいました。個人的に好きな街だったのですが、二人目の子供が生まれるタイミングもあり、妻の要望や住居環境等を考えた結果、土瓜湾に引越しました。現在で丸4年が経ちました。

土瓜湾ってどんな街ですか。住み心地はどうですか。

 パキスタンやバングラディッシュといった南アジア系の人が多い印象です。ネパール人が多い佐敦(ジョーダン)や油麻地(ヤウマーテイ)とはまた違った雰囲気でしょうか…。近所に住む娘のクラスメートも同様に多国籍ですね。それと老人ホームも多く、ご年配の方が多いこともあって比較的静かな街です。コロナ禍以前は、フェリーターミナル界隈に中国からの観光バスがバンバン発着していて、騒がしい時期もありましたが、今では一転して街が変わってしまいました。今、住んでいるマンションでいうと、棟内にスーパーマーケットやクラブハウス、プール、プレイグラウンド、バーベキュー場等、ひと通りあり、近場でほとんどの用時を済ませられるので満足してます。

良いところ、悪いところを教えてください。

 可もなく不可もなくといったところですが、強いていうと九龍島中心へのアクセスが不便 笑。バスだと5C、28番が尖沙咀方面に行きますが、乗り遅れると10分くらい待たなければならず、それ以外に同方面に行く本数も少ない。ただ、香港島行きは便利で、銅鑼湾(コーズウェイベイ)は106番、中環(セントラル)方面だと115番で上環(ションワン)の方まで行け、30分間隔で運行してるフェリーに乗れば対岸の北角(ノースポイント)へも出れます。あとは物価が安いところでしょうか。

MTRの開通後は変わりましたか。

 実はマンションが駅から離れていて、僕も妻もまだ利用したことがないんです。電車の運行間隔も比較的長いと聞いているので、自宅から駅まで歩いた後、タイミング悪く待つようだと、うーん…バスにしておこう、となりますね。

おすすめの場所(施設や飲食店)を教えてください。

 紅磡(ホンハム)と九龍城(カオルーンシティ)の両方に近く、ともにAEONがあるので、休日は家族でよくショッピングに行きます。カオルーンシティはタイ料理のメッカですし、大きな公園もあるので、家族連れの場合は利用頻度が高いです。土爪湾の近所だと、リーズナブルで美味しいレストランが充実しています。これから住みたい街を教えてください。

これから住みたい街を教えてください。

 個人的に西貢(サイクン)や村屋という一軒家に住みたいなぁと思ってますが、不便なので妻は反対してます…。ただ、2年後くらいに娘が通学する学校の新校舎が彩虹(チョイホン)に建つ予定なので、その周辺での村屋生活も密かに狙ってます!

MUSIC BOX取材に協力してくれたシンジさんのお店はこちら
住所:10/F., 10 Prat, 10 Prat Ave., TST
電話:(852)2368-1927
WhatsApp:(852)6111-5416


【大圍】

スクリーンショット 2021-10-20 093848 大圍は新界の沙田東地区に位置し、以前は大圍村とその周辺の幾つかの通りに限られていたが、現在ではより広い範囲をカバーしており、ライオンロックとニードルヒル(針山)の間の沙田谷と、ライオンロック・トンネル・ロードの西側を大圍と呼んでいる。現在、大圍は主に住宅地となっており、幾つかの住宅団地やショッピングセンターが住民の日常生活を支えている。

 大圍は今では開発された地域だが、沙田で最も古くて大きな壁に囲まれた村、大圍村が残っている。この村は、城門河沿いのMTR大圍駅の近く、積福街と積富街の交差点に位置し、明朝万暦2年(1574)に建てられた。当時、盗賊が横行していたことから、東莞と深圳の29家族が「積存圍」という村を組織して、「積善」(善を積む)、「存仁」(仁徳を持つ)の意味から、「大圍」と呼ばれるようになった。大圍村にはレンガ造りのアーチがあり、400年の歴史を持つ。このアーチには、「積存圍」の文字と、その左右に「積善必降祥,心願萬家同積善」(親切にすれば福が来て、すべての家族が親切になるように願う)、「存仁必獲報,遠其百姓共存亡」(仁義を尽くせば報われ、民は共に生き、共に死ぬ)という対句が書かれている。

 昔、大圍は田畑が多く、田心村は四方を田畑に囲まれ、他の村と離れていたことから「隔田村」と名付けられた。1910年、九広鉄道(現在のMTR東鐵綫)が開通したとき、その線路は大圍を通っていたが、そこには駅がなかったため、駅のある沙田墟に比べて、このエリアは繁栄していなかった。戦後、紅梅谷と望夫石は次第に住民の人気の高い休暇先となり、大圍は旅の途中の主要な補給・乗り換え駅となり、村には多くのレストランがオープンした。

スクリーンショット 2021-10-20 093910 1960年代、政府は沙田をニュータウンとして開発することを正式に発表し、大圍はその最初の開発地となった。紅梅谷の丘にある「世界花園」は1977年に完成。美林邨、隆亨邨、新翠邨などの公住宅は、1980年代には大圍市中心の北側と南側に建設され、1981年から1983年にかけて入居が開始した。南西に位置する顯田地区には顯徑邨が1986年に完成した。九広鉄路の南側には、公共のレクリエーション施設、サイクリングパーク、歓楽城遊楽場、青龍水上楽園などの娯楽施設が作られた。1983年鉄橋が破壊後、「木頭駅」と呼ばれていた大圍の臨時駅は、1986年に常設駅となり、美田路と村南道の交差点に移転し、住民のアクセスを便利にした。

 2000年代、馬鞍山鉄道(現在の屯馬線)の建設が始まり、それに伴い歓楽城遊楽場とサイクリングパークが閉鎖され、公共交通機関のインターチェンジや、九広鉄道メンテナンスセンター(現在の大圍車廠)を開設。その後、大圍車廠の上に「名城」「柏傲莊」などの高層マンションが建設された。

 大圍は小さくても活気のある街で、都市の密度は高いが建物が多すぎない、店と唐楼・村・新しい住宅団地が混在している、人口密度が高いことなどが住民の生活に結び付き、理想的な都市として人気を博している。

 また、年々大圍駅の混雑が激しくなる一方であったため、昨年2月14日に顯徑(Hin Keng)駅を開設し、混雑緩和を実現している。


 城門河 Shing Mun River 

スクリーンショット 2021-10-20 093926 城門河は新界沙田地区にある川で、長さは約7km、幅は200m、川の両岸には多数の住宅や、商業・工業用のビルがある。また、城門河にはいくつかの橋が架かっており、川の両岸に簡単にアクセス可能。サイクリングやジョギング、ボート漕ぎ、ドランゴンボートレースなど、地域住民がレクリエーションを楽しむ場にもなっている。

 まっすぐ伸びる川沿いには、サイクリングコースとジョギングコースがあり、獅子橋からスタートするこのコースでは、城門河の素晴らしい眺めが楽しめるほか、幾つかのエンターテイメントスポットもある。スタート地点の獅子橋の隣には香港文化博物館があり、さらに数分進むと沙田公園の入り口となる。瀝源橋を渡ると、沙田賽馬會スイミングプールがすぐそこにある。さらに進むと、香港映画「逆流大叔Menon the Dragon」の多くのシーンが撮影された沙田划艇中心。その先には、香港のアスリートを育成する「香港体育学院」「沙田競馬場」そして「彭福公園」がある。

 城門河では毎年4~5回のボート競技が行われていて、世界的に有名な「国際ドラゴンボートレース」の指定会場の一つとなっている。2008年のオリンピックでは、城門河でドラゴンボートに乗って60分間、オリンピック史上初めて川の上で聖火リレーをすることになった。また、毎年数百羽以上の野生の白鷺が川沿いに巣を作り繁殖していて、生物を観察するのにも最適な場所でもある。


 香港文化博物館 Hong Kong Heritage Museum

スクリーンショット 2021-10-20 093953 城門河沿いに位置する香港文化博物館は、四合院と呼ばれる中国の伝統的な建築様式によって建てられた。オープンと同時に地域の重要なランドマークとなり、観光客の注目を集めることになった。館内は、様々な展示を通して、香港の豊かな文化遺産を保存し、香港の文化的景観を解釈することを目的にしており、教育や学習にも力を入れている。

 約7500㎡の敷地に12の展示ホールがあり、6つは常設展示室、その他はテーマ別の特別展示で、地域文化に関する展示が定期的に行われているほか、海外の博物館との共同貸し出し展示も行われている。

 この博物館は、文化財の生き生きとした展示に力を入れており、過去の風景や建物を再現したギャラリーが多数あり、当時の社会生活や文化を体験することができる。常設展示室の一つである「粵劇文物館」には劇場のレプリカがあり、観客は舞台の中を歩きながら広東オペラのパフォーマンスを学ぶことができる。また、2026年まで開催されている香港映画のスター、ブルース・リーの特別展「武•藝•人生──李小龍」は、ブルース・リーの衣装や、手書きの絵、メモなど600点以上の遺品を展示。映画5作品の名シーンや訓練所など、ブルース・リーを疑似体験できる。

 博物館のもう一つの特徴は、4~10歳の子供たちのための施設である「児童探知館」。香港の昔ながらのおもちゃの展示のほか、自然と文化の歴史を紹介している。また、館内にはギフトショップやレストランも充実しており、大人から子供まで一日楽しむことができる博物館だ。

住所:1 Man Lam Rd., Sha Tin
電話:(852)2180-8188
時間:月、水~金 10:00~18:00、土日、祝日10:00~19:00
ウェブ:www.heritagemuseum.gov.hk


 紅梅谷自然教育徑 Hung Mui Kuk Nature Trail

スクリーンショット 2021-10-20 094045 ライオン・ロック・カントリー・パーク内にあり、毎年5月から6月にかけては、紅い梅が咲き乱れることから「紅梅谷」と呼ばれ、望夫石に近いことから、朝の通勤や観光客で賑わう。

 この歩道はバーベキュー場からスタートし、すぐに大圍エリアの住宅地を見渡せるようになり、街と郊外の風景が目の前に広がる。森の奥に行けば行くほど静かな環境になり、排水溝を通過すると、高さ532mのニードルヒルが見えて、さらに進むと、有名な望夫石が見えてくる。

スクリーンショット 2021-10-20 094102 望夫石は元々丘の上に立つ高さ30ftほどの巨大な岩だった。この岩の形が子供を抱いた女性の形に似ていることから、夫が長い間漁に出ていた女性が、夫がすでに海に溺れて亡くなったことを知らずに、子供を背負って毎日山に登っていたという伝説が生まれた。彼女の忍耐力を感じた神は、彼女が夫と再会できるように、女性を岩に変えた。地質学によると、この石は岩石の突出部が風化してこの形になったもので、遠くから見るとこの岩は夫を見守る女性のように見えているようだ。

住所:Hung Mui Kuk Nature Trail, Tai Wai


 車公廟 Che Kung Miu

スクリーンショット 2021-10-20 094022 車公廟の歴史は300年前に遡る。伝説によると、車公は南宋時代の将軍で、中国南部の反乱を鎮圧し、南宋末期に宋の最後の皇帝を護衛して南下させ、西貢に駐在した。当時の村人たちは、車公が洪水や疫病から守ってくれると信じ、彼の功績から寺院が建てられた。現在は香港第ニ級歴史建造物に指定。本殿は老朽化に伴い1994年に改築され、車公像は小さな仏像から約8メートルの高さに変わり、威厳に満ちた姿となった。車公像の両側に設置されている「風車」は、回すことにより幸運が訪ねると言われる。旧正月の2日目または3日目に訪れる事が多く、その日は「赤口」と呼ばれ、言葉の争いが起こりやすい日と言われているため、多くの 人が参拝して幸運を祈り、風車を回している。

住所:Hung Mui Kuk Nature Trail, Tai Wai


古巖淨苑 Ku Ngam Ching Yuen

スクリーンショット 2021-10-20 094118 車公廟の隣にあるこの寺院は1951年に意昭法師によって設立され、虛雲和尚を記念して名付けられた。本堂は五仏を祀る「千仏宝殿」で、円筒形の塔の上部には南東、北西、中央の五方向を表す五体の仏像があり、塔の底部には千体の小さな仏像がある。寺院の外にある四面仏像は、香港では初めてのものだと言われている。当時竹林禅院の住職であった意昭法師は、南海で仏教を広めるために旅をし、タイの副僧王と出会った。1985年、副僧王は四面仏像を意昭法師に贈り、四面仏像を古巖淨苑に安置し、これが香港で四面仏信仰が広まるきっかけとなった。1995年、4体の大きい菩薩像と500体の小さな羅漢像が壁面に追加された。2013年に悟りを開いた稀代な僧侶である意昭法師は、弟子たちに衣服を継承させて亡くなった。仏教の法会と11月9日(四面仏の誕生日)は1年のうちで最も盛況な日という。

スクリーンショット 2021-10-20 094150住所:1 Che Kung Miu Rd., Tai Wai 電話:26976625


 慈航淨院 Chi Hong Ching Yuen

y 大圍新田村に位置し、車公廟の隣にある慈航淨院は、1914年広州から来た宏願法師によって建てられた僧院。無私の精神で、僧院は学校に通っていない子供たちのための自主的な学校を運営し、中等教育機関を組織し、地域社会に仏教の経典を説き、仏教を広めている。

 正面玄関の右側には、初期に建てられた「大仏殿」「韋馱殿」「關房(僧侶が座る部屋)」がある。宏願紀念堂と祖師堂屬は後から建てられたもので、大仏殿と正面玄関の講堂の間にある。

 元々は女性のための修道院の予定だったが、旧日本軍が香港に攻めてきた際に、民衆を守るために男女を受け入れて設立された。設立以来、仏教の教えを広めることを使命としており、毎年虛雲老和尚をはじめとする著名人を招いて講演会を開催している。今でも毎週土曜日に法師の集まりがあり、誰でも参加可能。観音菩薩の誕生日、灌仏会、重陽などの特別な日には、仏教の教えを広める活動も行っている。

住所:1A Sun Tin Village, Tai Wai

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