アパレル会社「ICE FIRE」代表柳田洋さんインタビュー

2014/03/17
柳田氏と人形

オフィスもアメリカンカジュアル風。「この娘(こ)と
撮ってほしい」と柳田さんのリクエストを受けて。

新たに事業をスタートさせることより、事業を継続させていくことのほうがはるかに難しい。
そこで、今回、香港で32年間アパレルショップを展開し、香港の若者ファッションに多大な影響を与えてきた「ICE FIRE」代表の柳田洋さんにインタビュー。
当地でのビジネスについてお話を伺った。

ファッションセンスは大学のアイスホッケー部時代に培う
馬年で今年還暦を迎える柳田さん。カジュアルファッションのセレクトショップ「ICE FIRE」が成功したポイントのひとつとして、メンズを中心とした品ぞろえで、自身の感性を活かすことができた点をあげる。そのファッションセンスは、約40年前の大学生の頃に培われたものだという。

アイスホッケー部に所属していた大学時代は日本で「VAN」をはじめアメリカンカジュアルが流行りだした頃でした。「ビームス」や「ユナイテッドアローズ」などが開業する前で、ロゴ付きのスタジアムジャンパが出始めた頃です。まだインターネットもない時代だったので、「ポパイ」などのファッション雑誌を参考に、ちゃらちゃらしたスタイルをしていた体験がセレクトショップの経営で役立ちました(笑)。大学卒業後は、鹿児島で地方百貨店を経営する父から「こういう会社があるから行きなさい」と言われて、香港の日系繊維貿易会社に就職。英語も広東語もできなかったのに、軽い気持ちで香港へ。でも楽しかったですね。当時はHKD1が40円。タクシーはHKD2で乗れました。日本円で9万8,000円のお給料をもらうと、優雅に過ごすことができました。

Ice Fire 1号店

1982年に三越百貨店の壁面を利用してオープンした「ICE FIRE」1号店

袖革のスタジャンを
香港で初めて販売、爆発的にヒット
しかし、就職して2年後に経営不振で会社が閉鎖。日本に帰るとしたら選択肢は鹿児島のみだった。大学の同級生で東京出身の女性と結婚していた柳田さんは、故郷に帰るより香港のほうが暮らしやすいと考えた。そして、繊維貿易会社の経験も活かして、アパレルショップを運営しようと思い立ち、1980年に起業する。

その頃の香港は、ブルース・リー映画の影響で、街を歩く若者はフレアーパンツにポリエステルのポロシャツか襟が異常にでかいプリントのシャツばかり。ヘアスタイルは長めのおかっぱでした。私が学生のときに流行していたファッションが売れるんじゃないか、と思いました。そこで考えたのが、若者向けカジュアルファッションのセレクトショップです。「鈴屋」「三愛」といったレディースのセレクトショップが進出していたのでヒントになりました。
東京にはアメリカンカジュアルのいいブランドを扱う仕入先がありました。メールがない時代なので、「かくかくしかじかの者ですが、御社の商品を仕入れさせてください」と依頼状を書いて郵便で送りました。気の長い話ですよね(笑)。
ちょうど香港に日系百貨店が続々と進出してきたときでした。コーズウェイベイ(銅鑼湾)の三越百貨店のエレベーターホールに、何にも使われていない壁面スペースがありました。そこに目をつけて、貸してほしいとお願いするとOKとのこと。幅6メートルの壁面で、壁から60センチ以上は出してはいけないといわれました。イケヤで買ってきた棚を自分で組み立てて、トレーナーやスタジアムジャンバー、シューズなどを並べて売りました。これが「ICEFIRE」の第1号店です。
店は大人気で、売上は月に500万円ほどにもなりました。三越百貨店としては、ゼロのスペースから売り上げるスペースが誕生したわけです。気がつくと、他に3カ所あった同じような壁面スペースが売り場に変わっていました。
東急やジャスコなど、日系百貨店が次々と開店する中で、「おまえの店はオモシロイ。うちの百貨店に店を出さないか」と言われて、出店する機会をもらいました。どの店も好調で、特に香港で初めて販売した、袖革のスタジャンが大ヒットしました。

Ice Fire ジョーダン店

ジョーダン(佐敦)駅に直結した「プルデンシャル・センター」にオープンした頃。当時の香港の若者ファッションに大きな影響を与えた

勝因は変わらぬコンセプト
高級路線にも安売り路線にもシフトせず
「ICE FIRE」は日系百貨店の出店ブームに乗って26店舗まで店舗を拡大した。しかし、1990年代後半になると、ディベロッパーが直接商業施設の経営に乗り出すようになり店舗家賃が高騰。日系百貨店は撤退を余儀なくされる。「ICE FIRE」も家賃の高騰には悩まされるが、独自の経営スタイルを貫き、様々な荒波を乗り越えていく。現在、1店舗の年商は約1億円で、15店舗合計の年商15億円ほど。

これまで踏ん張りどころだと思ったのは、政治情勢などの影響を受けた2回、そして、新型SARSの大流行した2003年に、売上が低迷したときでした。SARSのときは、香港の景気全体が落ち込み、売上が半減。いつ収束するかもわからず、「倒産」の二文字も頭をよぎりました。でも、いずれも経営悪化の原因がこちらにあるのではないので、あわてず騒がず…をモットーとしました。
同じカジュアルファッションアイテムを変わらぬ価格層で売ってきたことも、30年間事業を継続してこられた要因になると思います。デザイナーズブランドを扱うなど高級路線にシフトをしなかったので、1990年代にバブルが崩壊したときも影響を受けることはありませんでした。もともと日本から製品を輸入していますので、製造小売型の「ジョルダーノ」「ユニクロ」のような低価格路線にシフトするのは物理的にムリでした。
個人の会社で、経営についてプレッシャーをかける親会社もないので、利益が出そうな物件があれば出店してきました。従業員にお給料を払うことができればよしとして、多くを望まず、店舗拡大戦略を取ってこなかったこともよかったと思います。
しかし家賃の値上がりにはいつも悩まされてきました。契約更新時には必ず家賃の値上を要求されるので戦々恐々でした。家賃は店舗の売り上げの20%に抑えるのが理想ですが、30~40%にもなる店舗もあります。
まだまだ日本のファッション業界には、すばらしいデザインやアイデアを持つ会社がたくさんがありますので、香港で「住民700万人」プラス「世界から訪れる人」を合わせた1000万人を対象に、ビジネスができるチャンスはたくさんあると思います。香港はビジネスのライセンスが取得しやすいのも魅力です。ただ、アパレルに限らず、小売り店舗を出店する場合は、ロケーションの選択と、売上に対する家賃比率がカギになります。それをクリアすればうまくいくと思いますよ。

柳田洋さん
ICE FIRE代表
鹿児島県出身。1977年、成城大学を卒業後、香港の日系繊維貿易会社に就職。会社が閉鎖となったため、1980年に独立起業。1982年、コーズウェイベイ(銅鑼湾)の三越百貨店に、壁面を利用したアパレルショップ「ICE FIRE」をオープン。以降、香港に日系百貨店の開店ブームに乗り、26店舗まで店舗数を増やす。現在は15店舗を展開する。数年前より「ICE FIRE」の経営の第一線は香港人社長に任せ、鹿児島の実家の家業である商業施設「マルヤガーデンズ」(ウェブ:maruya-gardens.com)の経営を手がけている。香港と日本を行き来する多忙な毎日を送るが「香港で一人暮らしを2週間、家族のいる東京で1週間、実家の鹿児島で1週間…という規則正しいスケジュールで毎月過ごしていますからマイルは貯まりますがストレスはたまりません。香港、東京、鹿児島それぞれの地で友達と会ってお酒を飲むのは楽しいですよ」と笑う。目下の問題は趣味でやっているバンドメンバーの欠員(ジョンとポール)を探し出すことだという。

POP 2012-04-20 (04)

 

ICE FIRE
ウェブ:http://ice-fire.com.hk

Pocket
LINEで送る