広州・時代の架け橋【五仙古観】

2017/02/15

城里洞天--都会の中にある「洞天」

五仙古観

恵福西路にある「五仙観」は「五仙古観」とも称され、1377年に建立された。「〜観」という場所や建物、日本ではあまり耳にしない。それもそのはず、ここは道教に関係した建物だからだ。道教では出家した道士が住み祭事を行なう施設のことを「道観」という。この「観」は、「みる」という意味のguānではなくguànという特殊な読み方をする。道観には道館、治館などたくさんの別称があり「〜観」もその一つなのだ。もともとは規模や機能など歴史的な違いで区別されていたようだが現在では曖昧となっている。

五仙古観

五仙観で現存するのは頭門、後殿、東齋と西齋で、南向きの地形に合わせ建てられている。後殿は600年の歴史をもつ明代宮殿スタイルで、緑の瑠璃瓦(釉薬瓦)が葺かれた重檐歇山頂(入母屋造)の木造建築だ。広州で現存する中では最も形の整った明代木造建築だという。観の中には碑文や石麒麟(麒麟像)や紅米石棋桿架、青石華表(標柱)などのお宝が保管されている。

五仙古観

明代宮殿スタイルの木造建築 「五仙観」

広州の五羊伝説には様々な言い伝えがあるが、その中に五仙観建立にまつわるものもある。言い伝えによれば、周の夷王の時代に、五人の仙人が口に稲穂をくわえた羊にまたがり広州に飛来し、広州の人々に稲穂をわたして五穀豊穣を祈願、その後仙人は天空に昇り、羊は石に変わったという。人々は五仙人をしたって五仙観を建立し、五仙騎羊像を彫って内部に奉った。現在の五仙観は整備されており、優美な雰囲気のただよう公共広場となっている。また人口の密集するこのエリアにおける避難場所の役割をも担っており、都市防災の観点からも重要な場所となっている。

■五仙観にまつわるエピソード
① 嶺南第一楼 & 禁鐘
観の後ろの山に「嶺南第一楼」がある。この楼と鎮海楼、海山楼、拱北楼の四つの楼を総称して”四大崇楼“という。これらはどれも明の時代に建立された。嶺南第一楼は高さ17メートルの二層構造。楼上には銅の鐘がつるされている。鐘は高さ3メートル、直径2メートル、重さ5トンで、広東に現存する古代の銅鐘では最大のものだ。鐘の音は十里(5キロ)先まで響いたという。伝説では鐘を撞くたびに災が起こるとされている。清の時代、参拝にきたある人が鐘を撞いた結果、その日、街で生まれた赤ちゃんの半数がいわれもなく死んでしまった……それで”禁鐘“つまり、この鐘を撞くことが禁じられたという言い伝えもある。

②仙人拇跡(仙人の足跡)
後殿の東側の池に縦横約4メートルの天然紅砂岩石がある。この岩には巨大なくぼみがあり、大きな足跡の形状に見えることから、「仙人拇跡」(仙人の足跡)と伝えられ丁重に守られてきた。伝説では仙人が降り立ったときの足跡とされている。科学的な説明としては、かつてこの場所は珠江に面していたので、この紅砂岩石の穴は珠江洪水とそこからの湧き水によってできたものとされている。

五仙古観

仙人の足跡? 紅砂岩石のくぼみ

五仙古観

③ 道教の「観」と「洞天」
道教は中国土着の宗教で、その思想は早くも春秋戦国時代には人々の心をつかんでいた。なぜ、道教建築物を道観と呼ぶようになったのか。もともと「観」とは、古代の天文学者たちが天体を観測するための観測所のことだったという。言い伝えでは、最初に「観」に住んだのは、漢の時代の汪仲道士とされている。汪仲は元帝の病を治すために皇宮内に設けられた「昆明観」に引きこもった。これを機に、道教徒は道教建築物を「観」と呼ぶようになったという。「洞天」(どうてん)は道教用語で、仙人の住むとされる名山勝境のことを指す。10ヶ所の大洞天、36ヶ所の小洞天が道教の地上における洞天の主要場所とされる。

五仙古観
住所:広州市恵福西路
電話:(86)20-8332-3508、(86)20-8333-6853
時間:9:00~17:00(月曜休館)
アクセス:地下鉄1号線「公園前」駅A出口から左手の「解放中路」を800メートル進み、「恵福西路」で右折、200メートルほどで「五仙観広場」が見える。「北京路」から徒歩で約15分、バスでも可。
その他:入場無料、身分証明書が必要

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