中国子育て事情 殿方だってなんとかなるさー!
私は、広州在住の40歳前の日本人男性です。中国人女性と国際結婚をしました。
娘が生まれ、大変なこともありますが、異国の地で家族と共に幸せに過ごしております。
娘はまだ小さいですが、妻の妊娠から出産、子育てについての経験を書いてみようと思います。まだまだ子育てが始まったばかりの浅い経験ではございますが、どうか最後までおつきあいくださると嬉しく思います。――筆者より
生命の息吹きを感じた日〜エコー写真〜
妻が妊娠に気づいたのは、春節で妻の実家へ里帰りをしていた時だった。家族が集まっている場所での妊娠の発覚は本当に良かった思う。出産経験のある義母や義姉が居たことは妻にとっては心強かったはずだ。夫である私が言うのものおかしいが、彼女らが居なければ、その時点で私の気が動転してしまったに違いない。
初めての検診の時には私も同行した。妻は大丈夫だというが私のほうが心配をしていた。2回目以降は、家から産婦人科まで徒歩3分であるため一人で行っていた。
おなかが大きくなっていくにつれて、妻は検診に行くのが楽しみに見えた。
私の最も忘れられない妊娠期の経験としては、エコー写真で初めて娘を見た時だ。
おなかの中にいるところを、超音波を使って撮影するというものだ。その写真は、輪郭と若干の目鼻立ちが、かろうじて確認できる程度ではあったが、妻は娘が私にそっくりであると喜んでいた。私としては、そう言われれば、そうかもしれないな? というくらいであったが、その時から、私自身も妻のおなかに宿った新しい生命を感じ取れるようになった気がしたのだった。
出産前、妻の両親との同棲
出産が近づくと妻のおなかは驚くほど大きくなり歩くのも大変そうだった。そのころは妻の両親が実家から来てくれて、妻の身の回りの世話をしてくれて本当に助かった。
その反面、大変なこともあった。妻の両親と私は、すでに長年の付き合いではあったが、同棲は初めてであった。どうしても無意識に気を使ってしまうのだ。妻の両親としても同じ心境であったと想像する。
出産を見越して2LDKに引っ越していたのが幸いだった。
妻の両親には大きい寝室を使ってもらい、私たち二人は小さい寝室に寝ていた。
もちろん妻の両親は私に対しても、非常に良くしてくれた。義父は私のために、グラスを二つ買い、夕食時に毎晩一緒にお酒を飲んだことは良い思い出となった。義母も妻に食べさせる食事とは別に、毎日私の好物も作ってくれていた。非常にありがたいことで、お二人の助けなしには、私たちの生活は成り立たなかったことは間違いない。本当に感謝している。
そして出産へ……
私は、出産日に家から徒歩3分の産婦人科に行くためにDIDIのタクシーを呼ぼうとしていたが、妻はそんなことは不要と押し切った。
陣痛の兆候があったあと、妻は産婦人科に電話をかけ、入院の準備をいたって冷静にこなした。反対に、冷静さを欠いた私は、ベビーカーの購入が出産に間に合わなかった事で焦っていた。私は退院後、家に帰ってくる3分の道のりがとてつもなく心配だったのだ。妻は抱っこして帰ってくれば良いと言う。今となっては非常に的確な判断だと思った。
その日の夕方から入院し、翌日の夜にようやく生まれた。分娩室に入るまで私は妻につき添い、看護婦さんの指導のもと、手際は悪いが身の回りの世話をした。
待機室に入ってから半日あまり待ち続けたあと、ようやく分娩開始となった。実は妻は発熱し、分娩を見合わせる状態となっていたのだ。(時間が掛かりすぎてはいないか?)妻の家族たちも不安を隠せなくなっていた。
私はこの時、冷静を保とうと必死だったが、頭の中では悪い想像がめぐっていた。(このまま母子ともに危険な状態になってしまうのではないか?)焦るばかりの私は、神様、仏様に祈る思いで、代わりにこの命をささげても何ら問題ないとさえ思った。
そんな大げさな心配をよそに、数時間後、無事出産。
先ずは看護婦さんに抱かれた娘と初めて対面した。ドラマでは、大きな声で泣く子供を抱え『元気な女の子ですよ!』というのが通例だが、そのとき、娘はすでに泣きやんで非常におとなしく抱かれており少々面食らった。娘はまだうつろな目を開いて私を見ていた。見つめあうと、戸惑いと嬉しさが入り混じった不思議な感覚を覚えた。感動のあまり、それは夢か現実かわからないくらい、信じられない感覚だった。
はじめての父と、成長してゆく娘
退院直後、子供の世話は、ほとんど妻と義母に任せきりであった。
私は、たまに娘の様子を見ているよう頼まれると、ちゃんと息をしているか心配で数分ごとに恐る恐るチェックしていた。そのころは抱っこなど、とんでもないと思うほど抵抗があった。触れるだけで怪我をさせてしまうのではないかと思うほど、娘は小さく感じた。
中国では生後100日を祝う。妻は娘にこの日のために買った服を着せて写真を撮った。
この時はまだ座ることも大変で、ベッドに寝たままの格好だった。
日を追うごとに、寝返り、うつ伏せ、ハイハイ、つかまり立ちと、だんだんと新しい技術を身につけていく。毎日見ていると、そうそうに気づく事ではないが、ふとした瞬間に大きな進歩を遂げていることに気がつく。
一歳の誕生日になるころは、つかまり歩きが得意となり、まだ不安定だが一人で歩けるようにもなった。誕生日を記念して、家族写真を撮りに行ったが、その時は写真館という見知らぬ場所に怖がり泣き出してしまった。結局泣き止むことはなく撮影は断念した。数か月後に再度トライ、少し泣いてしまったが今回はうまくいった。
現在1歳と8カ月と大きくなった娘は、中国語で一言一言の単純な表現ではあるが気持ちを伝えられるようになった。最近、誰も教えていないはずだが、でんぐり返しの練習を始めたことには驚いた。気を抜いていると私が置いて行かれてしまうかもしれないと思った。そして、育児とは、目が離せないものだと知った。
希望。それは、はじまり
私は、もともと子供が好きな人間でもなく、ロマンチックな感覚も持ち合わせていなかった。誕生日を祝うことや、記念に何か特別な事をやると言うのも照れくさくてできない不器用な人間だ。そんな人間がわが子を愛おしく思い、この子のために思い出を残そうと何かをしようと思ったり、この子のためなら何でもできると勇気を感じたりする。これは、私が出産に見出した希望である。
この希望をくれた妻と娘に感謝して、この文章を締めくくりたいと思う。本当に、本当にありがとう。そして、これからもよろしく。これは、ほんの始まりに過ぎないのだから……。
神沼昇壱(かみぬま しょういち)
随筆家。広州在住の日本人。2002年に中国に渡り留学と就職を経験。その後、中国人女性と結婚した。2021年現在一児の父として育児に奮闘中。