深センものがたり 第28回

2020/11/04

waya title〜 深センの歴史 〜

交易所の株価変動情報を眺める人々

交易所の株価変動情報を眺める人々

90年代発展途上

 1990年、深セン証券交易所が設立された。一般市民が株を売買する時代の到来である。人々は一心不乱に交易所の大きなスクリーン上の株価の変動情報を眺めていた。

 同年、東門広場に深センで初めてのマクドナルドが登場した。当時の同店では外貨である香港ドル以外は使用できなかった。なんと中国元での支払いはダメだったのだ。

 翌1991年、その向かい側にケンタッキーフライドチキン1号店も競い合うように開店した。

 筆者は当時から2~3年後に利用したのだが、パンがクソまずかったのを覚えている。

 

1990年、初登場のマクドナルドが東門の老街に開店

1990年、初登場のマクドナルドが東門の老街に開店

 

 多くの農村戸籍の人々は貧しい故郷を離れ、夢をもって広東省に出稼ぎにやって来た。自分たちの農村での過酷な生活を変えようとした。発展する広州や深センは多くの地方の人々からみると天国であり、多くの仕事は工場の単純作業員や日雇い風の土木工事のアルバイトであっても休みなく働き、春節には貯めた現金を持って家族の住む故郷へ帰っていったのである。

 

打工娘の証明写真撮影

打工娘の証明写真撮影

帰省列車「春運」

帰省列車「春運」

 

 1991年、深セン宝安国際空港の航行が開始される。翌年に国内線を利用した際、日本人は珍しいのか、客室乗務員や多数の乗客にジロジロ見られていたように感じた。機内食のパンがクソまずかったのを覚えている。

 1992年1月20日、鄧小平は羅湖の国貿ビル最上階の回転レストランで、「南巡講話」を発表。この後、本格的な市場開放が始まる。深センの地元企業へは今までには不可能だった特別な権限を与え、海外の企業は優遇された政策が利用できた。

 当時、大通りや雑居街の屋台店の多くは、小さな机と電話機一つ置いて、有料電話サービスを行っていた。携帯電話が普及していなかった当時では、ビジネスマン以外に、出稼ぎでやってきた人たちが故郷の家族との通話に重宝された。

 

鄧小平の実筆を使用した 「深圳」の2文字。 発展を願う強い意思が感じられる。

鄧小平の実筆を使用した
「深圳」の2文字。
発展を願う強い意思が感じられる。

1991年老街公用電話

1991年老街公用電話

 

 

IT産業のはじまり

 1995年、深センでは電子機器も扱うようになり、北京の中関村と並んで中国の二大電子機器集積地となる。中古の電子機器が市場に大量に流れてきて、それを安価な労働力でリサイクルすることで安価なコピー版電子機器を大量に販売されていた。製品を構成する部品の調達先は充実しており、高い技術がなくても工場は問題なく生産可能。流通網も確保されていた。

 1996年、台湾のフォックスコンが巨大工業団地「龍華科技園」を建設。世界中の大企業から受託製造し、高品質を売り物にしたサプライチェーンを確保し始めた。

 土木関係に従事する出稼ぎ労働者(農民工)は、翌日の日雇い人夫収集車に乗れるように駅の近くの露天で夜を明かす。宿泊所は有料であり、早朝にやってくる人夫収集車に確実に乗るために、生活に必要な最低限の荷物を持って待つのである。当時は冬でも温暖な深センならではの光景であった。

 

96年羅湖、右手は地王ビル、左手奥は国貿ビル

96年羅湖、右手は地王ビル、左手奥は国貿ビル

1997年華強北

1997年華強北

 

 1999年、深セン地下鉄の工事が開始。同年、中国最先端技術博覧会が開催された。HuaweiやZTEなどが最先端技術を出展した国際デビューである。

 この当時も深センでは至るところ、香港ドルで支払いができた。タクシーでは香港ドル支払いが喜ばれていた。1香港ドル=1.2中国元ぐらいだった。五つ星ホテルの朝食につくパンがクソまずかったのを覚えている。

 全世界に影響を及ぼす最大の国際イノベーション都市へのまだまだ“序の口”である

 


宮城 紀生深セン在住19年のベテランコンサルタント
宮城 紀生
miyagi@waya.net.cn
 
 
 
 
 
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