花樣語言 Vol.160 トランプの英語

2019/02/20

トランプ大統領はF.B.I.長官を「He was crazy.」と言って更迭した。側近たちを解任した理由も、He didn’t do a good job.だったりする。日本の高校生でももっと気の利いた単語を思いつきそうなものだ。大統領になったのがちょうど「PPAP」ブームのときだったので、ピコ太郎レベルの英語と揶揄された。が、good、crazy、great、これ以上シンプルな評価の言葉はほかにない。

メディアに対しても、「私がいくら良くやっても、彼らは決して良くは書かない」(No matter how good I do on something, they’ll never write good.)と、やはり「good」を使う。これは日常の話し言葉としてはあり得るが、「文法的に正しくない」とされる。副詞形「well」に変えて「how well I do」「write well」ならグッド。「Donald Trump’s grammar, syntax errors」(ドナルド・トランプの文法・統語の誤り)などの記事で随分といじられている。「Her(Clinton) and Obama ~」の「her」(主語なので「She and Obama」が正しい)とか、「I’m not unproud.」は二重否定で「誇りだ」とも「誇りでない」とも取れる、とか。アメリカ人は外国人の不完全な英語には寛容かもしれないが、社会的地位のある階層に求められる「規範文法」には厳格で容赦がないのである。トランプ大統領は「政治をワシントンから取り戻す」ことを標榜している。自らの英語もワシントンのエリートが使うような「規範文法」ではない。

「規範文法」の問題は、日本ではよく「ら抜き言葉」に例えられる。言語変化の自然な流れからすると「見られる→見れる」という推移は特別でも何でもない。が、これが顕著に現れたのが江戸時代でも明治時代でもなく戦後の首都圏だったので、「言葉の乱れ」と感情的に非難された。関西など他地域ではとっくの昔に「ら抜き」になっている。東京が200年遅れただけだ。(五段活用の「私は速く走られる→走れる」は東京でもすでに明治に完成しているので誰も「走れる」に文句は言わない。)「見られる:見れる」の対立が「正式:非正式」(規範文法:庶民語文法?)となった以上、日常会話やSNSでは「見れる」を使っていても、学校の作文や入社試験では「見られる」としないと不利になる。本や新聞を読まない人間と思われ、教養がないと判断される。「見られる」派の保守層は「見れる」を容赦しない。大目に見れない。もとい、見られない。英語は日本語以上に「規範文法」との葛藤が多い。規範文法に関してはアメリカもイギリスと同じである。庶民とエリートでは異なる英語を使っている。次のような違いは日本の高校でも教える。the person I spoke to:the person to whom I spoke、Who do you trust?:Whom do you trust?

I don’t know nothing.(私は何も知らない)は規範文法ではこう直される。I don’t know anything.さて、英語の二重否定だが、上智大学池田真教授の適格な解説をそのままお借りしよう。《英語は誕生以来、文中に否定語がいくつあっても文全体の意味は否定のままである。ところが、18世紀の規範文法家は「マイナス×マイナス=プラス」という数学の考えに基づき、「~でないことはない=~である」という理屈を持ち出し、規則化した》。つまり規範文法とは、多分に人工的なのだ。言語の持つ自然体の文法に逆らって、言語を改造した。フランス語の否定文は動詞を「ne ~ pas」で挟んで作るが、否定辞が二つあっても肯定にはならない。アフリカーンス語もまた、一つの否定に「nie ~ nie」と否定辞が2回出てくる。「否定呼応」という現象である。否定の強調、というか、念を押しているのだ。こういう言語は世界にたくさんある。「18世紀の(英語の)規範文法家」は、使うべき公式を間違えた。掛け算ではなく足し算である。「マイナス+マイナス=絶対にマイナス!」だ。否定辞が複数あれば聞き落としのリスクもそれだけ減る。日本語の場合は二重否定の多くが肯定の婉曲表現になり、中国語では強調文になる。「不得不拒絶」(拒絶せざるを得ない)、「非如此不可」(こうでなければならない)。が、日本語にも、こんなのがある。「これじゃないんじゃない?」(これではないのではないか)は、「これでしょ」という肯定ではなく、「”これではない”のでしょ」という否定の強調・確認である。関西バージョンもある。「この犬、チャウチャウちゃうんちゃう?」(チャウチャウではないのではないか)

東京にもかつて「山の手言葉」という上流社会の言葉があった。が、ほとんどなくなってしまった。今どき「うれしゅうございますわ」などと言うのは黒柳徹子ぐらいしかいない。スネ夫のママの「ざます」は山の手言葉の形骸化した名残りである。本来、関東の言葉に敬語というものはなかった。敬語は全て上方言葉からの借用と言っていい。地方の武士によって江戸の中心部、山の手に持ち込まれた。敬語がなぜ難しいかというと、成長してから無理やり(?)覚えさせられる言葉で、外国語を使うようなものだからだ。日本語のうちで最も「規範文法」に近いのは、山の手言葉をもとに一部の学者たちが人為的に定めた標準語の敬語である。「おいしくいただけます」はダメ、「おいしく召し上がれます」が正しい、とかいう類の、あれだ。

『アナと雪の女王』に、能天気なアナが「beautiful」の比較級にも「-er」を付けて「beautifuller」と言ってしまう場面がある(正しくはmore beautiful)。プリンセスやプレジデントの文法破りは、キャラになる。

 

大沢ぴかぴ

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