花樣方言 アクセント
ひとつ、お願いがあるんやけどな、気色悪い大阪弁はやめてくれへんか。
ドラマ『半沢直樹』で、半沢が、大阪の町工場の社長(赤井英和)にこう言われるシーンがありました。同じような経験を持つ人は、けっこう多いはずです。京阪の言葉を近畿圏以外の人たちが真似するのは容易ではありません。大阪の人は変な大阪弁を聞くと実に神妙な顔になって、なんででけへんのやろ…とつぶやいたりします。多くの場合、これは下手な大阪弁を揶揄して言っているのではなくて、本心から不思議に思っているのです。つまり大阪の人たちも、自分たちの言葉のアクセントが日本語の中で最も複雑で難しいのだという認識がないのです。
「おはよう」は日本語ですが、こう書いただけでは日本のどこの言葉なのかまではわかりません。中国語で「你好」と書いても読み方によって北京語にも広東語にもなり得るのと似ています。おはよう(○●●●)と1拍目を低く2拍目以降を高く言うと東京の言葉になり、おはよう(○○●○)と3拍目だけを高く言うと大阪弁になります。東京の人間に大阪弁を真似して言ってみろというと、たいがい、○●●○となってしまいます。逆に東京のアクセントを大阪の人間が真似するのも簡単ではなくて、●●●●とか○○○●になってしまいます。「コカコーラ」は東京で○●●○○、大阪で○○●○○、この、2拍目の「カ」が高いか低いかが天下分け目の関ヶ原、たった1拍分の高低の違いに、東京らしい発音になるか関西らしい発音になるかの命運がかかっています。
大阪弁には、4拍の名詞の場合、アクセントの型が7つあります。●●●●、●●●○、●●○○、●○○○、○○○●、○○●○、○●○○。それぞれ順に、ひきだし、かんがえ、ちかみち、はんしん、のらいぬ、なわとび、よしもと、などが該当します。一方東京の言葉には、○●●●、○●●○、○●○○、●○○○、これしかありません。言語というものは面白くて、このように無意識の規則が決まっていると、これ以外のパターンというのは現れないのです。両者に共通しているのは、「阪神」などの●○○○と、「吉本」などの○●○○、2つの型だけ。あとは皆、お互いにとって不慣れで言いにくい発音ということになります。そして、大阪弁では区別されている「引出し」と「野良犬」、「考え」と「縄跳び」が東京の言葉ではそれぞれ同じ型になってしまうため、どの語が引出し(●●●●)と同じ型でどの語が野良犬(○○○●)と同じ型なのか、など、いちいち覚えなければなりません。
三省堂の『新明解国語辞典』は、アクセントの「核」の位置(何拍目までが高いか)を数字で表しています。東京の言葉には、1拍目と2拍目は同じ高さにならない、という絶対的な規則があって(もちろん無意識のうちに自然にできた規則です)、この大前提のおかげで、核の位置さえわかれば自動的に単語全体のアクセントの型がわかります。「あいさつ」は「1」で、1拍目に核があって高くなり、次の2拍目以降が自動的に低くなります。「コカコーラ」は「3」で、3拍目までが高い(すなわち2拍目も高い)ということは1拍目は自動的に低くなるので、○●●○○という型になります。「文法」とか発音の規則というものは、破るのがとても難しい規則です。東京アクセントの話者にとって大阪弁の○○●○とか●●○○のような、出だしが同じ高さの連続で「低低~」「高高~」と始まるものは極めて言いにくいのです。大阪弁では1拍目の高低が自動的には決まらないので、核の位置だけでなく、その語が高く始まるのか低く始まるのかまでも、いちいち知っておかなければなりません。上にあげた4拍語の7つの型のうち、●●●●、●●●○、●●○○、●○○○が高起式、○○○●、○○●○、○●○○が低起式です。低起式の特徴は、見ての通り、核のある部分の1拍しか高くなりません。だから大阪のコカコーラは○○●○○で東京のコカコーラは○●●○○なのです。
京阪神は東京圏以上に、言葉のバリエーションが豊富です。コカコーラ、アルバイト…などには低起式○○●○○のほか、高起式●●●○○もあります。漢字語も、「東京」は大阪で●●●●、京都で○○○●、「地下鉄」には○●○○と○○○●があります。「近鉄」は、大阪で乗車するときは○●○○、京都に着いて下車したら○○○●です。幕末~維新期に関西で起こったアクセントの大変化は京都を中心としたもので、おとこ、おんな、あたま、ことば…などの●●○→●○○という変化は京都市内ではほぼ完全に起こっているのに対して大阪では●●○がけっこう残っています。そして京都から更に遠く離れた神戸まで行くと古い型の●●○のほうが主流になります。舞子さんになるには古い京言葉を話さなければならないのだから、新しいアクセントの現代京都弁を話している地元京都の女の子たちにとっては逆に不利ということになります。ただ語尾に「どす」だけ付けておけばいいというものではないのです。
大沢さとし