2分で読める武士道 第24回
世界中で注目されている日本人特有の性格や行動の数々。
それらの由来は武士道精神にあった。
しかし、肝心の日本人にその武士道精神が浸透していないのが日本の現状である。
筆者が外国生活を通して感じた日本人の違和感を「武士道」や「葉隠」などの武士道関連文献をもとに紐解いていく。
第24回 本当は○○することが好きだった武士
人間の一生はまことに短いものである。好きなことをして暮らすべきである。夢の間の世の中に、好きでもないことばかりして、苦しい目を見て暮らすのは、愚かなことである。このことは、下手に聞けば害になることだから、若い者などには決して話さない奥の手である。私は寝ることが好きである。今の身の上にふさわしく、いよいよ庵を出ずに、寝て暮らそうと思う、と言われた。
短い一生だからこそ好きなことをするべきというのは正論であるが、私たちの実際の暮らしのことを考えるとそれを実践することは難しい。それに君主のために、お国のためにお役に立つことこそが武士道の真髄である! ということが度々説かれてきたこの『葉隠』において、ここにきて突然「俺、本当は寝るのが好きなんだよね…」とカミングアウトされると何とも拍子抜けする。しかし、このような人間の本音が随所に赤裸々に述べられているところも『葉隠』が一般大衆向けの武士道指南書として1,700年代から現在に至るまで広く長く日本人に読まれてきた理由の一つなのかもしれない。
正徳三年十二月二十八日夜の夢のこと、志が強くなるほど、夢の内容も次第に変わってくる。自分のありのままが顕れるのは、夢である。夢(が映す自分)を相手として、努力するのがよい、と言われた。
夢の中であまり仕事関連のものは見ないが、高校、大学時代の柔道部関連のものを最近よく見るようになった。あの時もっと練習しておけばよかった、と当時について思い残したことが未だに心の中にあるのだろう。一方で、仕事で成功してお金持ちになりたいと日中いつも思っていても、夢ですら仕事が上手くいったことがないということはまだまだ思いが足りないということか。
少々見る眼をもった者は、自分の限界を知り、自分の非もともに知っていると思うので、(そのこと自体に満足し)いっそう自惚れを増すものである。自らの限界、自らの非が、真にどれだけのものであるかを知るのは、難しいことであるとのこと、海音和尚がお話になった。
私は高校時代に得意だった数学も数ⅢC(微分積分)が出てきたところで訳が分からなくった。自分の限界を知り、それを諦める悔しさもあったが、そこからは大学受験に向けて数ⅢCを捨て、数ⅠAと数ⅡBをマスターすることに決めたのを今でも覚えている。人には向き不向きがあるので、できないからしょうがないと思うのは当然であるが、そこから方向転換をしていくことも大切である。短所を直すのか、長所を伸ばすのか、それとも引き出しを増やすのか、限界に達してからの選択肢はたくさんあるはずだ。特に今はネットが普及し、情報収集も容易にできるようになり、ハーバード大学に通わなくたって彼らの講義をYouTubeで観ることができるくらいだ。自分の知らない領域に足を踏み入れるための好奇心と勇気を常に持ち続けていきたいものである。
外から一見して印象的なところに、各人がその人なりにもつ、人としての威勢が、そのまま顕れるものである。嗜(たしな)み深いところに威がある。言動の調子ががゆるやかなところに威がある。言葉が少ないところに威がある。礼儀が丁寧であるところに威がある。立居ふるまいが重々しいところに威がある。奥歯をかみしめ、眼差しの鋭いところに威がある。これらは皆、(あくまで威が)外に顕れたものである。つまるところは、(内において)気を抜かず、常に正念である、というところが(威の)根本だ、と言われた。
良い言葉、態度、姿勢は自分の良い印象を他人に残す上で最も大切なものであるが、良い身だしなみも間違いなく他人に良い印象を与える。私が持っている柔道クラスでもたいてい落ち着きのない子、言うことを聞かない子は道着の着こなしも良くない。道着の裾が帯から出ていたり、帯がゆるゆるだったり、中には帯をつけていない子もいる。会社の採用面接でも身だしなみが良くなくて面接の内容が良かった求職者はいない。もちろん、身だしなみだけでその人の人となりを決めつけることはできないが、不必要に損な印象を他人に与えないためにも最低限の身だしなみは心がけようと思う今日この頃である。
筆者プロフィール
宮坂 龍一(みやさか りゅういち)
東京都出身。暁星高校、筑波大学体育学群卒業。
香港の会社、人事、芸能、恋愛事情にうるさい。