2分で読める武士道 第17回
世界中で注目されている日本人特有の性格や行動の数々。
それらの由来は武士道精神にあった。
しかし、肝心の日本人にその武士道精神が浸透していないのが日本の現状である。
筆者が外国生活を通して感じた日本人の違和感を「武士道」や「葉隠」などの武士道関連文献をもとに紐解いていく。
第17回 投手松坂大輔のすごいところ
松坂大輔選手が引退した。夏の甲子園のPL学園との延長17回完投勝利、プロ初登板での片岡選手に投じた内角高めの155キロ、イチロー選手に対して3打席3三振など、松坂大輔を語る上で欠かせない数々の伝説の試合を私は運よくリアルタイムで観ていたので、今回の彼の引退に関しては非常に感慨深いものがある。
松坂選手引退に関する記事を読んでいると、本人も「東尾監督に200勝記念ボールをあげたかった」と言っているように、彼の野球人生における東尾監督の存在はとても大きく、監督とは自他ともに認める師弟関係であった。
松井秀喜に長嶋監督、イチローに仰木監督、大谷翔平に栗山監督と偉大な選手の後ろには必ず偉大な師匠の存在がある。とはいえ、これらの師弟関係は本当に稀な成功例であり、失敗例の方が圧倒的に多いのは言うまでもない。
良い人はいないものである。勇ましい話を聞く人すらいない。ましてや修行する人はさらにいない。この前から方々で数人と出会ったときには、みなに手加減して話してきかせた。目一杯を話せば、嫌われるに違いない。(聞書第一 p.243)
スポーツの監督に限らず、どの世界にでも、言ってみれば幼稚園や小学校においても師弟関係というものは存在しうる。しかし、師弟関係が成立するには弟子と師匠のシンパシー(共鳴)が必要不可欠で、どちらか一方に強いパッションがあっても相手にその熱が伝わらない、もしくは熱そのものがなければ師弟の絆は結ばれない。夢は大きいほうがいいというけれど、みんながみんな大谷翔平やイーロン・マスクになりたいわけではない。多くの人間にとっての目標は定時に退社して土日はしっかり休むということに尽きる。そういう人たちに「宇宙に行こう」と言っても聞く耳を持たないのは今に始まったことではない。高いレベルで共鳴できる人間同士が巡り合えること自体がもはや奇跡なのだ。
あれこれの分別をやめて、ただ「ご用に立ちたい」と思うまでのことである。このように思わないつもりではないのだけれど、色々隔てるものがあって打ち破らないので、あたら一生を無駄に暮らすのは、実に残念なことである。「自分ごときは何をしたところでご用に立つことができようか」と卑下の心をもって暮らす者もある。「ご用に立ちたい」と心から思ってさえいれば、むしろ不調法者ぐらいの方がよいのである。知恵ある者、利口な者などは往々にして害になることがある。(聞書第一 p.284)
師弟関係が最終的に成り立つためには弟子と師匠がお互いに心から信じられるかどうかに掛かっている。松坂選手が西武ライオンズに入団する際、東尾監督は自身の200勝記念ボールを当時弱冠18歳の高校生に手渡しながら、「俺がお前を200勝投手にしてやる」と言ったという。超高校級とは言え、プロで通用するかどうかはいまだ未知数だった青年にここまでのことができる人間はそうそういないだろう。おそらく東尾監督本人にとっても賭けだったのかもしれないが、賭けてもいいと思わせるほどの価値や魅力が当時の松坂大輔にはあったのかもしれない。結果的にその男気に松坂青年の心は動かされ、見事な師弟関係が結ばれた。野球人生の後半は怪我との闘いでもはや本来の球を投げられる状態ではなかったというが、肘や肩がボロボロになっても最後まで見事に投げ切れたのは、「200勝で恩返し」というあの23年前の師匠への誓いが常に心にあったからだったに違いない。
高卒1年目から最多勝という見事なスタートダッシュを切ったものの、最終的な記録としては200勝には届かなかったが、松坂選手の本当に凄いところは所属チームをそれぞれ甲子園春夏連覇、日本シリーズ優勝、ワールドシリーズ優勝、WBC優勝、オリンピック銅メダルという結果に導いたところにあると思う。そんな平成の怪物が第二の人生をどう選択するかは大変興味深いところではあるが、もし若い世代の育成に携われるような立場に就くことがあれば、彼が身をもって感じてきた師匠への感謝、チームを成功へと導いたときの歓喜、自身の身体が思うように動かなくなったときに味わった苦悩や挫折というものを存分に伝えていってもらいたい。
引用:講談社学術文庫「葉隠(上)」
筆者プロフィール
宮坂 龍一(みやさか りゅういち)
東京都出身。暁星高校、筑波大学体育学群卒業。
香港の会社、人事、芸能、恋愛事情にうるさい。