【Cover Story】香港式しゃぶしゃぶは、しゃぶしゃぶしない
香港の冬は短い。しかし2月の夜風は容赦がなく、指先から体温が奪われる。そんな日に救われるのが、湯気の立つ鍋である。今回、ホームステイ先の彼女の両親が用意してくれたのは「香港式しゃぶしゃぶ」だった。筆者にとって初めてではないが、食卓に着くたびに日本の常識がほどけていく感覚がある。
まず、しゃぶしゃぶしない。肉をくぐらせる前提がなく、鍋は最初から最後までぐつぐつ煮える。出汁も昆布や鰹の輪郭は薄く、その代わり乾燥した薬膳のような素材が入る。香りはスープに移り、方向性は薬膳鍋に近い。具材の考え方も大胆である。日本なら魚・練り物・肉をきっちり分け、肉も牛か豚か鶏かと絞りがちだが、香港は遠慮がない。海老も魚も肉も野菜も、ホルモンまで一緒に投入する。混沌ではなく、結果として“旨味の積み上げ”になるのが面白い。
たれも潔い。ポン酢や胡麻だれではなく、醤油にニンニク、ねぎなどの薬味を合わせるだけだ。これが強い。ニンニク醤油に、魚介と肉と野菜のだしが重なっていく。食後の余韻が、初めて某マシマシ系を食べた後の感覚に似ていたのも納得である。
鍋の周りでは、言葉より先に手が動く。皿が空けば次の具材が滑り込み、誰かの箸が迷えば「これ入れたらええ」と合図が飛ぶ。合理的で、あたたかい。香港の食卓は、味の設計図よりもその場の熱量で完成するのだ。観光で食べる火鍋もいいが、家庭の鍋には生活のリズムがある。
食材はウェットマーケットの超新鮮さで、歯ごたえがばらばらに楽しい。祝い事で鍋を囲む文化は香港にもある。そして今回は、筆者のとある手術からの退院祝いでもあった。湯気が立つ鍋は、体だけでなく心と傷にも効く。冷えた指先を、温かい食卓がほどいていくようであった。


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