僕の香妻交際日記 親から子への最後の教え

2024/12/04

P16 HK Wife_727第92回

金曜日の夜、日本にいる姉からLINEで「お父さんが熱が出て入院したよ」と”また”連絡があった。普段は特に姉から連絡が来ることはないので、連絡があるとすれば父の身に何か起きた時(だいたい入院した時)である。

父が初めて倒れたのは19年前のことである。私は当時大学受験勉強の真っただ中で、あの日は確か日曜日だったため学校も部活もなく2階の自分の部屋にこもって自主勉をしていた。母と姉は外出中で、父は祖父母と一緒に居間でテレビを見ていたと思う。特に何の変わりもない普通の日曜日だった。
すると突然、祖母が階段の下から「龍ちゃん、龍ちゃん」と珍しく大きな声で私の名前を呼ぶので、何か食べ物でもくれるのかと居間に来てみると、畳の上には全身びっしょりになって「痛い、痛い」と胸を押さえながら呻(うめ)き、小さい子どもが駄々をこねるように身体を左右にバタバタしている父の姿があった。祖母の話によると、父が庭の池を掃除している最中に突然池の中に落ちて、その後自力で這い上がってきたとのことだった。

病院に運ばれてまもなく父は気を失い昏睡状態になり、そこからはもう医師もどうすることもできず、文字通り神頼みで父が自ら目を覚ましてくれるのを待つしかなかった。

父が目を覚ましたのはそれから約1カ月後のことであった。私もすぐに病院に駆けつけると、微かながら目を開けている父の姿がそこにはあった。父の手を握ると、僅かながら手を握り返してくれた。あの感触と感動は今でも昨日のことのように覚えている。

それからさらに数カ月経って、ようやく父が退院した。86キロあった体重は70キロまで減って、全身、特に足の筋肉が激減したため、歩くのもやっとだった。後遺症で視力も70%ほど失った。
その日から、母によるフルタイムの介護が始まった。父は目もよく見えないし、立つのも歩くのもしんどいので、トイレからシャワーまで全て母が手伝った。それでも1年2年と月日が経つにつれ少しずつ父の体力は回復した。
母はよく「お父さんが死ぬまで私は死ねない」と口にするようになった。昔からあまり感情を表に出さない母だったが、母が父を朝から晩まで介護する姿を見て、私は初めて二人の愛というものを感じた。

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私が大学を卒業するくらいの頃には父は会社にも顔を出せるようになった。特に仕事をするわけではなかったが、週に一回ちょっと顔を出して家に帰って来るという感じだったと思う。リハビリは順調だったが、それでも年に数回は原因不明の高熱で入院したり、散歩中に転倒して血だらけになって病院に運ばれたことも何度かあった。毎日ハラハラしながら、今日は何もなかったねという日々が重なり、今年も何とか乗り切ったね、というのが我が家の年末のお決まりの話題になった。

父のリハビリ17年目、母が膵臓癌で逝去した。最期の1カ月は病気の進行も早く、コロナ禍で航空券を取るのに難航し、私が日本に駆けつける1日前に自宅で息を引き取った。母の死は私たち家族に大きなショックをもたらしたが、何より父にとっては受け入れられない出来事だった。葬儀も終わり母はお骨となって家に帰ってきたが、四十九日が過ぎても父は頑なに納骨を拒み、毎日家の中で母のお骨を眺めていた…

土曜日の夜、姉からまたLINEが来た。
「お父さん突然病室で気を失って集中治療室に運ばれたから、今から病院に行ってくる」

これまで幾度となくさまざまな原因で入退院を繰り返してきたが、今回はちょっと嫌な感じがしたので妻と相談して、翌日日本に帰る手配をした。

日曜日の朝、姉からまたLINEが来た。
「お父さん、息をひきとりました」

その日の夜に妻と娘をつれて父の住んでいた家へ戻ったときには、まだ父の温もりが至る所に残っていた。父の椅子に敷いてあるクッションはまるでさっきまで父が座っていたかのような形をしていた。父のベッドもまるでたった今起きたかのようにブランケットが無造作に置かれていた。ただ一つ違ったことはそこに父の姿はなかった。

数カ月に及ぶ闘病の末に亡くなった母と1日そこらで突然逝ってしまった父。親の死こそが親から子への最後の教えというが、まさにその教えを対照的な最期を迎えた両親から身をもって教わった。きっと父はまだ自分が死んだことに気が付いていないかもしれない。でもたぶん父にはそんなことはどうでもいいような気がする。なぜなら、父はまた母と一緒になれて幸せだからだ。


ルーシー龍ルーシー龍(りゅう)
東京都出身。香港歴11年。現在は香港の現地法人で人事部長を務めている。モットーは三度の飯のために飯を食わない。特技は豚のように食べること。
 

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