総合健康診断サービス「メディポート」健康コラム:SARSのころ
本格的な夏を迎える頃になると、2003年に世界を震撼させた感染症SARS(重症急性呼吸器症候群)を思い出します。それは、今の会社を興して4年目に入ったころ、顧客数が順調に増えてきたことから「今年はいけるぞ」という、漠然としたものではあったものの明るい希望が膨らんできた頃でした。WHO(世界保健機関)によって香港が感染流行地指定されたことをきっかけに、希望が大きな不安に一転してしまいました。気がかりはその前年の11月から流行りはじめた奇妙な肺炎(非定型肺炎)でした。11月16日、広東省で最初の患者が発生していますが、後にSARSの流行期はこの日からとされました。中国では人々の間に不安が広がり、家の中で酢を焚くと感染予防に効果的だという根拠が無いうわさを信じて大量の酢が買い占められ、一時は香港でも酢が消えてしまったほどでした。
香港ではホテルの宿泊客がスーパースプレッダーとなって16人の宿泊客に感染を広げています。それまで中国内での出来事のように眺めていた香港市民を震え上がらせたものです。ここでの感染者は自らの感染に気付くことなくカナダやシンガポール、台湾、ベトナムへと向かい、各地で感染の拡大を招くこととなりました。原因不明だったこの病気は、ついにこの年3月15日に重症急性呼吸器症候群・SARSと名付けられ、「世界規模の健康上の脅威」と位置付けられたのです。2月から3月は正体がわからない新しい感染症に人々の恐怖心が大きく膨らんでいった時期にあたります。
4月2日にWHO(世界保健機関)が感染の拡大を阻止するべく広東省と香港への渡航延期勧告を出したことに従い、翌日には日本政府も同様の勧告を出して渡航の自粛を促しました。香港在住の邦人社会では、まずは家族を帰国させる措置をとるとともに、すべての出張を取りやめる企業が続出。経済活動に甚大な影響を与えることとなりました。弊社でも7月5日にWHOによる流行の終息宣言がなされるまでの間は、健康診断を受ける顧客数は限りなくゼロに近く、とても大きな不安の中で毎日を過ごしていたものです。
マスク姿にあふれた香港の街は少々不気味でもありました。それまで香港の人々はマスクなどすることはまずなかったのに、巷のマスクは買い占められ、どこかからか調達してきたマスクをワゴンに載せて高値で売る姿をあちこちで見かけたものです。多くの会社ではマスクなしでの入室が禁止され、オフィスビルの入口にはアルコール消毒のスポットが用意されました。人々は正体がわからない感染症にいつか自分も感染してしまうのではないかと恐怖に怯えていたのです。ただ、誰から誰に感染したというとても具体的な感染ルートが判明し、さらには正確な患者数が把握されるなどから、感染力はそれほど強くはないと思い、個人的には事態を楽観的にとらえていたことを覚えています。感染者数の増え方が緩やかであったことも小さな安心材料だったのかもしれません。流行当初のスーパースプレッダーの存在や集合住宅での集団感染といったことが再び起きないことを願うだけでした。
そんなある日、日本のテレビ局からの電話インタビューを受けました。番組が始まる前から受話器を持たされ、生番組が始まるとその向こうからスタジオの様子が聞こえてきました。数分後に「香港で医療関係の仕事をしている日本人の方と電話がつながっています」と言って司会進行役が私に突然質問を投げてきました。それまでにスタジオから聞こえてきていた「悲惨な香港の状況」に違和感を覚えた私は、誰もがマスクをしていることやレストランは閑古鳥が鳴いていることを話したものの、そんな状況であっても「香港の人々は普通の生活をしている」というようなことを話したのです。とても大変な状況をリポートしてもらえるものだと期待していたのか、スタジオでは明らかに慌てている様子が電話越しに伝わってきたものです。打ち合わせがなかったので仕方がありませんが、当時、日本では香港の「悲惨な状況」「おどろおどろしい様子」を描写するにふさわしい断面だけを切り取って繰り返し報道していましたから、香港で生活している者の実感とのギャップに私自身辟易としていたものです。確かに香港は大変な状況にあったけれども、そこには普通の市民生活があることも理解して欲しかったわけです。
さて、今後もSARSや鳥インフルエンザといった新興感染症と呼ばれる新しい感染症によっていつ我々の生活を脅かされる事態が起きるのかわかりません。特に鳥インフルエンザは、人から人に感染するタイプに変異して、世界中で大流行する危険性について長い間議論されてきています。スペイン風邪の再来を心配する声がある一方で、現代医学の力で大きな流行被害は起きないという意見もあります。いずれにしてもいざ流行が始まると、根拠不明の怪しい情報や興味半分の報道などに振り回されてしまうことを繰り返してしまうのかもしれません。現在のような平穏なときに、いざという時にどう行動するか考えておいたほうが賢明です。情報のとらえ方やその利用に関しては普段から身近な問題でトレーニングしておいた方が良いかもしれません。