深センものがたり 第26回

2020/09/02

waya title〜第3季 よもやま話〜

~深センの歴史~

西暦331年~

紀元前214年、秦始皇が中国を統一した時代、中国大陸南部の嶺南地区に南海、桂林、象郡の三郡が設置された。この時、現在の深センは南海郡に属していた。深セン市にあたる行政区分が史書において最初に登場するのは、西暦331年の宝安県設置の時である。宝安、海豊、興寧などの6県を管轄する郡として東官郡を設置し、範囲は現在の珠江デルタ及び恵州、潮州一帯に相当。その時の宝安県は現在の東莞市、深セン市及び香港特別行政区を管轄していた。
中世期 西暦590年(隋の時代)、東官郡は廃置、宝安県は南海郡に編入され、郡の地方政府が深センの南頭地区(現在の南山区)に設置された。
757年(唐時代)、宝安県は一旦廃止、東莞県と改名され、地方政府が東莞へ移り、南頭に屯門軍鎮が設置された。
以上は今から1200年~1700年前の移り変わりだ。深せんの地は1673年間の都市としての長い歴史を誇るのである。

 宋、元、明の時代

 宋の時代の深センは南方海上交易の重要な拠点となり、製塩業や米・茶葉栽培、香料で繁栄し、元の時代には真珠の産地として名を知られた。

 1394年(明の時代)、現在の深セン市内に東莞守御千戸所並びに大鵬守御千戸所が設置された。
田 前回のコラムでも述べたが、「深圳」という地名は1410年の史書に最初に登場する。客家の方言で田畑の溝は「圳」と呼ばれ、地域は川や沼が多く、村には深い溝があったので、この地名になったのである。

1573年、旧宝安県の部分に新安県が設置され華南地区の海上交通や政治の中心となっていた。

1898年龍華客家村民

1898年龍華客家村民

近代の深セン

清時代の末期になると南京条約や北京条約により、新安県の一部であった香港島及び九龍半島をイギリスが租借するようになり、新安県が分割されると同時に、香港との国境の街としての歴史が始まった。深セン墟という墟市(定期的に市を開く町)である。深セン墟は現在の深セン中心街の東門商業区にあたる。

深圳墟

深セン墟

商売
中華民国時期に再び宝安県に改称された。中華人民共和国成立後も、その名称をそのまま使用していた。
1907年(清の時代)1月、イギリスは広州から深センまでの区間の鉄道を建設した。広州大沙頭駅から珠江東行に沿って、石龍、樟木頭(共に現在の東莞市)を経て新安県(現在の深セン市)までの区間である。同年7月、イギリスは香港九竜から深センまでの建設工事を開始。广九铁路

広九鉄道路

広九鉄道路

1911年10月15日、羅湖鉄路橋(現在の羅湖口岸の傍ら)が開通し、現在の九広鉄道が完成した。羅湖駅の設備はとても粗末なもので、4つのベンチを並べた切符売り場兼待合室だけであった。当時、毎日100人前後の旅客だけが駅に出入りしたそうだ。

明や清時代の深センと香港一帯には、海から侵入する敵を防ぐための砲台などの設備がいたるところに設置されていた。深センの大部分と香港全域は明と清の時代には新安県と呼ばれ、広東省広州府の管轄下であった。

1991年平湖駅

1991年平湖駅

深セン鎮人民政府が成立するのは、まだ先の1949年10月の中華人民共和国成立後であった。

 


宮城 紀生深セン在住19年のベテランコンサルタント
宮城 紀生
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