エッセーの瀬!Vol.129「天下の回りもののお金とカルマの話」

2022/08/31

essay (2)

~在中邦人の感賞的後日談~
音楽、文藝、料理、絵画…世の中のありとあらゆる藝術を、市井の目線から解いてゆく…
気鋭のライター4人が送る痛快リレーエッセイ

 

天下の回りもののお金とカルマの話

金は天下の回り物というけれども、それは偶然ではなくて必然なのかもしれない。さらに、そこに情や気持ちというものがあると、これは偶然ではなく、なるべくして、あるべくして、まわりまわって来たものなんじゃないかと思うことがある。どこにいてもそう思える出来事のひとつやふたつがあって、「これはきっと、あれがああなって、こうなったんだ!」とか、勝手に一人で感動している。スクリーンショット (1739)

私は実は、カルマという思想が好きだ。尼さんに見間違われる見た目をしているので、海外にいると、”Are you a Buddhist?” とか “Do you believe Buddhism?”
と聞かれることが多々あった。だからというわけではないが、仏教思想には惹かれるものがある。この『カルマ Karma』とは、『業(ごう)』という意味で、仏教的には『行い』を意味する。簡単に言うと、「カルマとは、自分がしたことは必ず自分に返ってくる法則」のこと。良い行いをすれば良い結果として返ってくる、悪い行いをすれば悪い結果として自分に返ってくるということだ。前世とか今世とか、世を越えて影響するものだともいわれるけど、私は、単純に、「物事は、回りまわって、結局自分に返ってくる」と解している。良いことも、悪いことも。(しかし、カルマという思想が好きだからと言って、いつも良いことばかりしてるかというと、そういうことでは全くない。)

話は、冒頭の「金は天下の回りもの」に戻る。

大学生や社会人になりたてのころ、食事や飲み会の席で、先輩や年上の方たちに奢ってもらったり、多く出してもらったりすることが少なくはなかった。恐縮しきってお礼を言うたび、「自分たちもこうやってしてきてもらったから」、「マキが先輩になったとき、後輩に出してやってよ」、「自分ができるようになったときに、次の子たちに払ってあげればいいんだよ」と言われ続けてきた。そんな寛大な先輩方に恵まれ、申し訳ないなぁと思いながらも、自分もこんな先輩になるんだと固く決心をして、今に至る。

これも、一つのカルマなんじゃないかと、私は思うのだ。天下の回りものと言われる「お金」もただ「お金」だけで世の中を闊歩しているわけではない。それを使うのは人だ。人が「お金」を、稼ぎ、払い、また、懐に入り、出していく。そこには意思があり、目的がある。そして、気持ちもあるのだ。
先日、友達の新店開業祝いに顔を出した。お祝いを持っていき、そこでも、お祝いの気持ちを込めて、お祝儀の気持ちで買い物をした。その後、久しぶりに知り合いの日本酒バーにひとりで顔を出す。そのお店の常連客さんたちでほぼ席は埋まっていたのだけど、わざわざ真ん中を空けてもらって、楽しくお喋りをして一緒に過ごさせてもらった。一足先にお暇しようと、「お会計」と声を掛けたら、隣の席に座っていた、その日初めてお会いした中国人の紳士が、店主に頷いて、「It’s my treat.」と言うではないか。下心や思惑があっての言葉ではないことは、その場の雰囲気や店主やその人の人柄でも良くわかる。彼は、単純に、場とお酒と楽しい時を共に過ごしたことへの『気持ち』でご馳走してくれたのだ。

実はこれも同じことなのかもしれない。 Pay forwardとKarma。

実はこれも同じことなのかもしれない。
Pay forwardとKarma。

金は天下の回り物とは言うけれど、回りまわって戻ってくるのは、お金だけに違わず。お金かもしれぬ、酒かもしれず、気持ちかもしれないし、友情や愛情かもしれぬ。どんな形であれ、回りまわって、ちゃんとそれが自分に回りまわって戻ってくるのは、人のために(恩着せがましくなく)、気持ちよく(出し惜しみすることなく)、本気の心で(見返りを求めるとかじゃなく)、何かを誰かのために差し出せた時だと思う。
気持ちを込めてお金を使い、人を想ってお金を使おう。世の中はカルマで回っている。


Maki

広州5年間の滞在を経て現蘇州在住5年目に突入。憧れの中国十年戦士に。そのうち二十年戦士に憧れる日が来そうな予感。古巣広州がいつまでも大好きな(自称)フリーランスティーチャー。寝台列車で広州に向かうのが好き。ビールがあって、大好きな友人たちがいればご機嫌。飛騨高山出身。旅好き・人好き・お酒好き。テニスも猫も音楽も好きだ。

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