花様方言 Vol.196 <トムの友だち>

2020/08/26

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 『トム・ソーヤーの冒険』には続編がある。親友のハックを主人公にした『ハックルベリー・フィンの冒険』。南北戦争前の奴隷制にまつわる話だ。黒人奴隷の逃亡を助けることになるハックは白人の子どもだが、自由気ままな放浪生活が好きで、学校には行かない。だから読み書きは中途半端にしかできない。間違いだらけの英語しか書けない。金持ちの未亡人に引き取られて教育を受けさせられるが、これがまた我慢できない。「教育する、教化する=civilize」をハックは「sivilize」とつづる。

 英語でこう書いたら、今でもそうだが、まともに教育を受けてない(civilizeされてない)ことの証明のように見なされるだろう。当時のアメリカは、「教育」を受けた「教養」ある人たちが、奴隷制を正当なものと見なしていた。ハックもそういう時代の洗脳からはのがれられずにいて、「俺が奴隷を逃がすのは俺が教育を受けてない無法者だからだ」と考えてしまう。そして「トム・ソーヤは学校に行って教育を受けているのに、どうしてこの重大犯罪(奴隷を逃がすこと)に加担するんだろう」とさえ考える。どうです、『トム・ソーヤーの冒険』よりテーマが深刻でしょ。

(Confirmed)753_Godaigo 「civilize」とつづることがそんなに大事だろうか。そもそもなぜ「si-」の音をわざわざ「ci-」とつづるのか。英語では同じ音なのに。理由は、この単語がラテン語由来だからだ。中世のフランス語を経由してイギリスの上流社会に入ってきた。city、cinema、cigarette、circle、cinnamon、cider(サイダー、リンゴ酒)、cicada(蝉)、こういうのも同類。多くは更に古典ギリシャ語までさかのぼれる。「ce-」もまた、しかり。certain、celebrate、ceramic、cell、cement、century。英語の試験のとき「s~」と書いてバツになった、って?せいぜい昔の英国貴族を恨むがよかろう。教養ある英国紳士は「si-/ci-、se-/ce-」を書き分けて、上流階級であることを満喫し、優越感にひたっていた。(実際は教養人でもけっこう書き間違えていた。)

 日本語なら、「ず、じ」と「づ、ぢ」を書き分ける。「熱い:暑い」などを書き分ける。「私は」「本を」「学校へ」と書く。実は「~わ、~お、~え」に変えるまであと一歩というところまで行っていたのである。「教養人」たちに反対されて実現しなかった。私わ、本お、学校え、と書くのは無教養でマヌケに見える、ということだ。「~は、~を、~へ」は、現代仮名遣いの中に残した旧仮名遣い、すなわち古語である。そして漢字による書き分けは、外国語である漢語の意味区分をそのまま導入したにすぎない。本来、日本語の「あつい」に「熱:暑」のような区別はない。おおよそ世界中の言語のつづりにおいて、同じ発音をわざわざ違う字で書き分けるのは、外来語か、古語のなごり、そのいずれかである。漢字は日本語にとって体系そのものが丸ごと「外来」であり、また同時に古語でもある。現代の中国語ではお湯が熱いのも気候が暑いのも、どちらも「熱」だ。

 ラテン語由来だからといって「civilize」を「ci-」で書かねばならないなどという必然性はない。例えばノルウェー語では「c~」と書かない。centre、central、などもラテン語由来だがオスロ中央駅には「Sentralstasjon」と書いてある。対してスウェーデン語ではストックホルム中央駅が「Centralstation」だ。なお、「civilize」と書くのはアメリカ英語である。イギリスでは「civilise」。文化に「絶対」はない。自分が正しいと思っているものは大概、その様式への「慣れ」にすぎない、ということが多い。私わ学校え行って本お読む。こういうつづりも、慣れれば、抵抗なく読めるようになる。

 『ハックルベリー・フィンの冒険』は、当時実際に使われていた言葉で書かれている。だから黒人に対する差別用語などもそのまま出てくる。よって、若干、敏感な扱いになっている。今のアメリカでは絶対NGである「ニガ―」も出てくる(219回出てくるという)。「黒」はラテン語で「niger」、スペイン語で「negro」、スペイン語を話す奴隷商人たちによってもたらされたのだろうが、ラテン語が、なんと最低レベルの差別用語に成り下がっている。ラテン語崇拝に明け暮れていた往年の英国貴族たちは、どう思うだろう。

 ヘミングウェイは『ハックルベリー・フィンの冒険』を「すべてのアメリカ文学はこの作品に由来する」と絶賛した。同じくノーベル賞作家の大江健三郎も、人生観に大きな影響を受けた、ということを熱っぽく書いている。物語の中で、ハックは幾度となく「良心の呵責」にさいなまれる。奴隷制は良くない、と、さいなまれるのではない。法律を破って奴隷を逃がしていることに「良心」が痛んでいるのだ。当時、南部の奴隷州では奴隷の逃亡幇助は違法であるばかりか、教会でも、奴隷を逃がす者は地獄に落ちるぞ、と厳しく教えていた(脅かしていた)。でもハックは、心の優しい黒人奴隷のジムさんをどうしても助けたい。ついに「Allright, then, I’ll go to hell.」と、喜んで地獄に落ちる決心をして、「良心」を捨てて、奴隷を逃がすという「悪事」に突き進む。黒人を虐待した警察官が逮捕される現代のアメリカとは法や道徳が真逆である。そんな痛ましい時代を、作者のマーク・トウェインは、ハックの心の葛藤を通して痛烈に描き抜いた。ハックとジムが逃避行の筏(いかだ)下りをするミシシッピ川の描写も絶品だ。

 英語で「Go to Hong Kong!」とは「Go to hell!」の意味なのだという。昔の人たちはほんとに平気でヤバいことを言っていた。ミシシッピ川もすてきだが香港のビクトリアハーバーの夜景もまだまだきれいだ。ぜひ、喜んで「地獄」に落ちたい

大沢ぴかぴ

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