花様方言 Vol. 181<ナポレオンのスパゲッティ>

2020/01/08

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香港で「拿破崙意粉」(ナポレオン・スパゲッティ)なるものを目にするようになったので、食べてみた。その前に、表記法について。日本語では最近「スパゲッティ」と書かれることが多く、これはイタリア語の発音には近い。いわゆるイタメシブームの後に増えた。以前はもっぱら「スパゲティー」で、あえて言うならこれは英語式。一般にはまだこう言っている人が圧倒的に多い、と思う。「スパゲティ」というのも新しい部類で、コンピュータ、アイデンティティ、データ、のように最終音節の長音「-」を落とすのが近年の傾向である。「スパゲッティー」は、イタメシの潮流には乗っているがまだ語末の長音を落とせないでいる世代。「スパゲテー」は、明治、大正、昭和初期生まれの世代。文化庁の『外来語の表記』にはこう書いてある。【「ハンカチ」と「ハンケチ」、「グローブ」と「グラブ」のように、語形にゆれのあるものについて、その語形をどちらかに決めようとはしていない。】つまり自由放任政策、ほうっておいて自然に形が落ち着くに任せる。法律用語(祝日法)の「元日」と庶民語の「元旦」や、「競売」の読み方「けいばい」と「きょうばい」のように役所の介入によって言葉にゆれができてしまったのは古い例だ。「スマフォ」と「スマホ」は、後者に落ち着いた。新海誠監督は2016年『君の名は。』の小説版でまだ「スマフォ」を使っている。スパゲッティ(便宜上この形を使います)のようにバラエティーに富んで、しかもなかなか形が定まらない例は珍しいが、イタメシ好きの人にどう言ってるか聞いてみたら、「パスタ」だった。
「意粉」は「意大利粉」の略。イタリアは香港では「意大利」、台湾では「義大利」。スパゲッティは台湾では「義大利麵」。「麵」は麦偏で「粉」は米偏、だから「麵」は原料が小麦で、「粉」は「米粉」すなわち原料が米、とはいうが、小麦粉は「(小麥)麵粉」なのでまぎらわしい。パンは確かに小麦が原料だから「麵包」。原料が米といえばビーフンがあるが、まさに「米粉」は福建や台湾の閩南語の発音で読めば「ビーフン」である。ナポレオンには「拿破崙」のほか「拿破侖」があって、ナポレオン・スパゲッティも「拿破崙意粉」と「拿破侖意粉」、二つの表記法がある。スパゲッティにどうしてナポレオンが結びつくのかわからなかったが、ケチャップ味で、焼うどんやたこ焼きなど日本式B級グルメ系を売る店に多いという法則に気づいたとき、ハッと頓悟した。これはナポリタン・スパゲッティである、と。ブラックペッパーが強烈だったり、ピーマンやタマネギが(あったり)なかったりするので、気づくまでに膨大な時間を要した。
ナポリタンがナポレオンになった理由はすぐにわかった。かの『深夜食堂』の香港版で、「ナポリタン」の字幕が「拿破崙」となっていたそうだ。ならば単純な誤訳である。問題は解決、「拿破崙意粉」はナポレオンとは何の関係もない。単に発音が似ていただけだ。それにしても、『深夜食堂』の影響力はすごい。「猫まんま」が「鰹節をかけたご飯」に一気に傾いたのも『深夜食堂』の影響だ。だが「味噌汁にご飯を入れたもの」がかつて多数派だったのは事実で、昔の猫は本当に、食べた(食べさせられた)。猫は乳離れ後の3か月(4か月?)の間に食べたものなら生涯にわたって食べるそうで、南米の猫はトウモロコシを食べ、イタリアの猫はスパゲッティを食べる、という衝撃映像をNHKでやっていた。猫まんまだけでは当然タンパク質が足りず、だから昔の猫は必死にネズミを捕まえて食べた。今は栄養満点のキャットフードがあるのでその必要はない。だから、だらだら寝てばかりいる。
「拿破崙意粉」の英語表記が「Napolitan」となっている。今ではよく知れた話だがナポリタンは日本生まれのスパゲッティである。ナポリにナポリタンはない。で、実は「Napolitan」という英語も存在しない。「ナポリの」を表す英語は「Neapolitan」である。ナポリとは関係ないのだからあえてこう書く必要もないわけだが。イタリア語では、Napolitano(男)、Napolitana(女)、Napolitan(i複数)。「Napoli」はイタリア語だ。英語では「Naples」だが、形容詞形が「Neapolitan」と、「-ea-」なのにはわけがある。もとのギリシャ語とラテン語ではナポリは「Neapolis」だからだ。本国のイタリアでさえ書かなくなったこの「-ea-」にイギリス人はこだわった。英語にはこういう古臭いつづりがやたらと多い。しかもよく暴走して、island(島)のように、英語にはもともとなかった「s」をラテン語の「insula」にならって無理やりねじ込んだりする。東京の「天王洲アイル」駅にも「TennōzuIsle」と書いてある。素直に「Airu」はどうか。意味不明に変わりはないが。

723_GODAIGO 日本のナポリタンは英語では「Naporitan」なのだそうだ。イタリア語でも「Naporitana」なのだとか。さて日本語の「r」音についてだが、言語学・音声学の世界ではこういう音を測定する方法が19世紀からある。パラトグラフィーといって(今風には、パラトグラフィ、だろうか)、舌に塗料を塗って「r」の音を発音してもらって、口蓋(口の中の上側)に、どのように塗料が付いたか(調音点)を観察して音声の種類を特定する。ちなみに英語の「r」はニセモノの「r」であり、「接近音」なので舌が口蓋に接触せず、塗料が口蓋に付かない。現在はエレクトロパラトグラフィという装置があるが、手軽に行うにはココアパウダーか食品用の備長炭パウダーにサラダ油を混ぜたものを舌に塗る。もっと手軽に行うには、サイゼリヤに行ってイカ墨スパゲッティを注文し、舌にべろっと付けて「r」を発音する。そしてスマフォ、もとい、スマホを口の中に突っ込んで写真を撮って、それをじっくり分析する。

大沢ぴかぴ

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