花様方言 Vol. 175 <Add oil>

2019/10/09

Godaigo_logo 京アニの放火事件では海外からもお悔やみ、励ましの言葉がたくさん寄せられた。中華圏からの応援には「加油」と書かれたものがけっこうある。それを見てぎょっとする日本人が多いという。「加油」は「がんばれ」の意味だが、なにしろガソリンをかけられたわけだから、中国語を知らなければ、そりゃぎょっとするわな、普通。

言葉がある時ある場所で変化を起こして、それが周辺地域へと伝播していく。こういう「周圏論」を説明するのに、最初に変化が起こった場所を「震源地」と書いたことがある。言語の変化も地震の振動のように周囲へと伝わっていく。原稿を送信した直後に熊本で震災が起きた。あわてて編集者に連絡して「震源地」を削除してもらった。京アニ事件で「加油」と書いた人たちは、そういう気配りをしようとは思わなかったのだろうか。…たぶん、思わなかったのだろう「。加油」(かんばれ)から「油を加える」を連想することすらなかったと思う。このように、本来とは違う別の意味に変わった語句を、慣用句、成句、イディオムなどと呼ぶ。「加油=がんばれ」という記号の圏外(この場合、日本など)の者にとっては「加える」と「油」の組み合わせにしか見えなくても、圏内(中華圏)の者にとっては逆に「油を加える」という意味が思い浮かばない。これが「記号」の神髄であり、イディオムの本質である。「加」と「油」がくっつくと、あら不思議「、加」と「油」の意味が消えてしまう。

「加油站」なら、これはガソリンスタンドのことである。この場合は元の意味が残っていて、中華圏の誰もが「油を加える場所」と受け取る。だから同じ「加油」でも「、がんばれ」と「加油站=ガソリンスタンド」では脳の言語野で別の処理が行われている。「熟語」という熟語があるが、この語の示す意味は曖昧だ。一般にはだいたい次の3つの用途で使われている。1.二字またはそれ以上の漢字で書かれる漢語。2.二つまたはそれ以上の語が合わさって、一つの語として用いられるようになったもの。3.慣用によって、特定の意味に用いられるようになった語句。(大辞泉を参照。)この1.は「幸福」とか「美女」とか「一石二鳥」とかの漢字語のことで、普遍的な言語の性質とは関係ない。2.はいわゆる複合語、合成語で「、震+源+地「」ガソリン+スタンド」のように元の意味でそのまま使われていようが関係ない。3.がいわゆるイディオム、日本言語学会ではもっぱら「慣用句」と訳すことにしている。日本英語学会でも同じく「熟語」という用語は使ってないはずだ。日本語の慣用句といえば「油を売る」(むだ話などをして仕事を怠ける)などが思いつく。江戸時代、髪油の行商人が客を相手に世間話をしながら売ることが多かったからだが、言葉の本来の意味を考えることは、時に重要ではない。日本のガソリンスタンドはどこもたいがい礼儀正しくきびきび働いていて、油を売ってるような店員はまず見かけない。
「油を売る」は日常しょっちゅう使うわけではないので「油」の意味は完全には抜けてない。時々ふと、なんで油なんだろう、と思ったりもするだろう。「がんばる」の場合は「頑張る」だから「頑」を「張る」のだろうな…と思うかもしれない。が、それは違う。「がんばる」は「我(が)を張る」「我に張る」の転訛か、あるいは「眼張る」だと推測されていて、それが語源俗解で「頑」(がん=かたくな)の字があてられた。江戸時代から出てくる。こういうことはまじめに考えるだけ無駄である「。がんばる」を「頑を張る」だと思い込んで頑張るのは勝手だが、江戸~明治期の文人たちは当て字の常習犯だった。繰り返すようだが言葉の本来の意味を考えることは、時に重要ではない。
add oil かつて「がんばる」は、広く日本中で「きばる」(気張る)だった。先日NHKのドキュメンタリーで中村玉緒が京言葉で「おきばりやす」と言っていた。大河ドラマ『西郷どん』では西田敏行が鹿児島弁もどきで毎回「きばれ!」と言っていた。東北にも「けっぱる」(気っ張る)があり、沖縄には「ちばりよ」(気張れよ)がある。「がんばる」が「きばる」を押しのけて全国制覇を遂げるに至った大きなきっかけは、かの有名な「前畑がんばれ」であろう。1936年のオリンピック開催地ベルリンが「震源」、日本中に激震が伝わった。「気」(き)を「ち」のように発音するのは硬口蓋化(パラタリゼイション)といって、沖縄と東北、日本語圏ではこの両端で特に顕著に起こっていた音韻変化である。だから周圏論的に見て縄文語の特徴の名残りなのかもしれないし、あるいは偶然かもしれない。パラタリゼイションは世界中あちこちの言語でよく起こる極めてありふれた現象だからだ。ドイツ語の「Kirche」(キルヒェ=教会)が英語で「church」(チャーチ)となるのもそう。「加油」は広東語で「カーヤウ」(gāyàuh)、北京語音で「チャーヨウ」(jiāyóu)のように発音するわけだが、「カキクケコ」の音が華北で「チャチチュチェチョ」になる。これも典型的なパラタリゼイション。前世紀の前半まで中国語のパラタリゼイションは「訛り」とみなされていたので、「北京」は「ペイチン」(Beijing)ではなく「ペキン」(Peking)のように「キ」で言うのが標準とされた。「重慶」を「Chungking」と書くのも同じ。「重慶大廈」はチョンキンマンション。北京語音「チョンチン」(Chóngqìng)のほうが邪道(?)だった。

英語の「Longtimenosee」は中国語「好久不見」(広東語なら「好耐冇見」)の直訳だ、という説がある。最近は「加油」も「Addoil」と英語になっている、などと言われる。が、英語には「Addoiltothefire」というのがあって、これは日本語でもそうだが、まさに「火に油を注ぐ」だ。「Selloil」(油を売る)というのはどうだろう。日本は石油を買ってばかりだが。

 

大沢ぴかぴ

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