花樣語言 Vol.171<数と人称>

2019/08/07

UntitledA『ザ・シンプソンズ』というアニメがあって、今年で30年、これがアメリカの最長寿テレビアニメだそうだ。日本には『サザエさん』があって、世界一の50周年である。両方とも家族の話だが、シンプソンズが一家全員「シンプソン」姓であるのに対して、サザエさんの家には「磯野」姓と「フグ田」姓がいる。英語で「The Simpsons」のように「-s」が付けられるのは、全員が「Simpson」の場合だけだ。シンプソンが複数いるからシンプソンズなのである。これが日本語の「~たち」と大きく違う点で、日本語で「磯野さんたち」と言ったら、その一群の中にフグ田さんや伊佐坂さんや野比さんや野原さん(番組が違うぞ)が混じっていても、言葉としては全然問題ない。「サザエさんたちが来た」と言った場合、「サザエさん」は複数存在しないので、当然、1人のサザエさん+カツオ+ワカメ+マスオ+波平…といったような集団が来たのである。こういう場合、英語で「サザエさん”ズ”が来た」とは言えない。日本人が英語の「複数」を苦手とするのは、「複数」の概念そのものが違うためだ。日本語にはヨーロッパ諸語にあるような「複数」は存在しない。

「学生が来た」と言う場合、その学生が2人以上でも日本語では間違いにならない。いちいち「学生たちが来た」と言う必要はない。ことさら複数であることを示す必要があるときのみ、「ふたりの学生」とか「大勢の学生」のようにすればいいのである。この場合もまた「大勢の学生たち」とする必要はないし、「ふたりの学生たち」というのは日本語として変だ。それに、「~たち」は人間にしか使えない。『羊たちの沈黙』のように動物に使うのは擬人法で、比喩だとされる。山々、島々、家々、人々、のような反復による複数形があって、二度言えば数が増える、というのは実に面白いが、この用法も極めて限定的。川々も、海々も、車々も、学校学校も、言えない。我々、はあるが、彼々、あなたあなた、などはない。

日本語では複数でも単数と同じ形で事足りるので、いわゆる「和製英語」の世界では、数の不一致が常態化している。野球用語は、ナイター、デッドボール、トップバッター、ホームイン、など和製英語だらけで、フォアボール、ツーストライク、スリーアウト、数字が付いていても全く複数形にしない。フォアボールズ、なんて絶対に言わない。(本物の英語でフォアボールは「walk」または「base on balls」。)また、トランプでも、ポーカーの、スリーカード、フォーカード。(「three of a kind」と「four of a kind」、または「trips」と「quads」。なお「トランプ」は本来「切り札」という意味。それが「playing card(s)」を指すようになった。)芸能界関係では、ピンクレディーというのがいたが、2人でも単数形だった。

『妖怪ウォッチ』のテーマソングを歌っていたDream5(陰ながら応援していたが解散してしまった)の、『ようかい体操第一』の直前に出した曲が『We are Dreamer』で、「-s」を付け忘れている。歌詞にもこのフレーズが何度も出てくるのだが、英語字幕付きMVがあると知って、どう処理されているのか、おそるおそる見てみたら案の定「We are dreamers.」と訂正されていた。英語話者にとってはやはり単・複の不一致は容認できないのだ。Dream5はNHKのEテレ(教育テレビ)からデビューしたのだから、間違った英語で歌わせたらかわいそうだ。ピコ太郎が有名になってすぐNHKで歌ったときは、「I have a apple.」の部分が字幕では「I have an apple.」と訂正してあった。さすがはNHK。こういう改ざん(?)は許されるんだね。

日本語の「~たち」や「~ら」と中国語の「~們」は非常によく似ている。學生們(学生たち)のように人間にしか使わないし、動物に使ったらやはり比喩になる。そして複数だからといって必ずしも付けなければならないわけではない。必須は人称代名詞だけ、というのも共通している。我們(私たち)、你們(あなたたち)、他們(彼ら)。広東語なら、我哋、你哋、佢哋。だが、この「哋」は「們」とは大きく違う。「哋」は人称代名詞にしか付かない。學生哋、は不可。広東語で「學生們」としたら、これは文語的表現だ。広東語と北京語は、基本的な語彙や文法にこそ違いが多い、という特徴がある。では広東語で複数を表す場合はどうするか。「啲學生」と、前に類別詞「啲~」を付ければいい。当て字で「D學生」とも書く。これは北京語的には「些~」に相当する。また、磯野佢哋(磯野さん彼ら?)と言ったらまさに「磯野さんたち」で、「磯野さん+他の誰か」の意味になる。例外は「人哋」だが、これは北京語の「人們」(人々)ではなく「人家」(ひとさま、他人)に近い。人哋嘅老婆(誰かの妻、人妻)は、決して、複数の人たちの妻(多夫一妻)を意味しない。そもそも、私たち(我哋、我們、we)というのは「わたし+別の誰か」のことだ。「わたしの複数」というのはあり得ない。クローン技術で「わたし」を複製したって不可能である。

つまり英語でも、人称代名詞の場合の「複数」は、「The Simpsons」のような「-s」とは違って、「磯野さんたち」のような「~たち」と同じなのだ。「He/she+別の誰か=they」である。これを「サザエさん方式」と呼びたい。(って、それはアニメのキャラが年取らない、って意味だろ。)人称代名詞の単・複なら間違えるわけない、と思ってるあなた、それはアマい。新婚旅行で、新郎は無意識のうちに「I’m from Japan.」と言っている。聞き手は、じゃああなたの奥さんはどこから来たの、と思ってしまう。「We are from Japan.」。修学旅行はどこへ行くか。「I will go to ~」、いえいえ、一人旅じゃないんだから「We will go to ~」。客室乗務員はさすがだ。機内の狭い通路、2人でワゴンを通しながら「Excuse us.」と言う。学校でも大概「Excuse me.」しか教えてくれない。

大沢ぴかぴ

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