花様方言「香港」という地名の由来

2014/03/24

香港の夜景「香港」という地名の由来は何なのでしょう。香料の原料になる香木を積み出した港だから、という説が有名ですが、これは「香港方物志」(1958年)という本にそう書かれていたからなのであって、これだと「トルコ帽」を「トルコ人のかぶる帽子」としていた、かつての日本の国語辞典と同レベルのように思えてしまいます。(トルコ人はトルコ帽をかぶりません。故・柴田武博士の指摘で全ての辞書が訂正されました。)「香港」には多くの起源説があります。香港が歴史書に登場するのはあまり古くなくて、宋代の「新唐書・地理志」にまず「屯門」が登場、清になって「新安縣志」に、香港島とおぼしき島の名前として「紅香炉」というのが出てきます。香港島の地下鉄「天后」駅のすぐそばにある天后廟が、海から流れついた紅香炉(赤い香炉、あるいはその形をした岩)をまつったという有名な廟。この「紅香炉」説もよく紹介されます。
外国船の給水地だった香港島の南側には、イギリス人がのちにアバディーンと名付けた「香港仔」があり、滝が海に流れ落ちる「絵のような風景」だったとサー・ヘンリー・エリスは書いています。滝を描いた200年前の水彩画はたいへん有名。この水の流れが「香江」(紅江)で、これが「香港」の由来となったという説もあります。「香江」は香港の美称になっていますね、日本を「みずほの国」と言ったり、イギリスを「アルビオン」といったりする類の、いうなれば雅号です。歌詞やキャッチコピーなどによく使われ、観光客向けのビクトリア・ハーバーでの光のショー「シンフォニー・オブ・ライツ」は漢語のタイトルが「幻彩詠香江」。毎晩8時から。
かつて香港島の沿岸部にたくさん住んでいた船上生活民は蜑家(タンカー)(水上人)。蜑家の方言で「香」は「hong」、香港を英語で「Hong Kong」と言うのはイギリス人が蜑家の発音を聞いたからなのだ、という説も支持を集めています。(確証を持つには至りませんが。)蜑家は広東語系、同じく元船上民の「鶴佬」(ホクロウ)(福佬)と呼ばれる人たちは福建語系の方言を話し「香」は「hiaⁿ」~「hi oⁿ」、香港島の陸地の先住民は客家人、客家語で「香」は「hiong」。これに新界の広東語系方言「圍頭話」を話す「本地人」を加えた4つのグループが香港の先住民とされています。香港歴史博物館で勉強しましょう。水曜入場無料。
標準広東語の「香」の母音は「円唇前舌半広母音」といって、この音を持たない英語や日本語などの話者にとっては厄介な発音です。明治の先人たちも苦労したようで、ドイツの文豪「ゲーテ」の発音について齋藤緑雨は「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」と一首詠んでいます。ゲーテは「Goethe」と書きますが、「oe」は現代のドイツ語では「ö」、大聖堂で有名な都市「ケルン」の「Köln」がこの音です。また、熱風が吹く気象現象「フェーン現象」の「フェーン」が「Föhn」。…しかし、「香港」の「香」をギョエテにならってヒョエンと書いてみても、また、ホェーンとかヘォーンと書いてみても、カナではうまく表せないのです。母音は普通、舌の位置が前のときは唇を平らにし、逆に、舌を奥に引くときは唇を丸めます。こうするほうが発音しやすいからで、「イ」「エ」「オ」などのありふれた音はこの方法で作り出されます。「ö」とか「ü」は、舌と唇の組み合わせが逆で、舌が前なのに唇が丸いのです。無理して練習して舌をかんだりしないように。
この音に悩まされたのは明治の知識人だけではありません。平成初期の香港映画ブームのときの香港芸能人の名前。張國榮(Leslie Cheung)はレスリー・チェン、レスリー・チャン、レスリー・チョンがあり、張曼玉(Maggie Cheung)も同じくマギー・チェン、チャン、チョンの3本立て。梁朝偉(Tony Leung)と梁家輝(LeungKa-Fai)はおそろいでトニー・レオンとレオン・カーフェイ(カーファイ)ですが、梁詠琪(Gigi Leung)はジジ・リョン。ところでジャッキー・チェン(Jackie Chan)が「チャン」ではなく「チェン」になったのは、1970年代、日本には先にアグネス・チャン(陳美齢)が来ていたため、名前がかぶるのを避けたのだとか。(英語風の発音なら「C h a n」は「チェン」になります。)張學友(J a c k yCheung)はジャッキー・チェンとかぶるのを避けて、ジャッキー・チュン。どうにかしてくれよ…という香港映画ファンの嘆きが今も耳の奥に懐かしく残っています。
広東語はローマ字表記も教本や辞書ごとにばらばら。「香」は、イェール式ローマ字では「heung」、千島式あるいはNHK式と呼ばれる表記法では「höng」、中国国内の学者が使う公式表記では「hêng」、IPA(国際音声記号)では[hoeŋ]、香港では目下、香港語言学会の方式を採用する方向に動いていて、「hoeng」。広東語学習者諸氏の嘆きは今も絶えない…のかもしれません。

大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

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