花樣語言Vol.138文豪に逢おう

2018/03/27

北京語で書かれた最初の小説は『紅楼夢』。ダンテはラテン語ではなくトスカーナ方言で『神曲』を書いて、これが現在のイタリア語の基礎となります。現代日本語の言文一致体は落語の語りを手本にした『怪談牡丹灯籠』などの試作期を経て、「~だ」調の先駆けとなるのが二葉亭四迷の『浮雲』。「~です・ます」調は山田美妙の『夏木立』、「~である」調は尾崎紅葉の『多情多恨』、これがなかったら夏目漱石の『吾輩は猫である』もなかったわけ…である。

1

尾崎が採択した「である」の起源は室町時代で、「~にて、ある」→「である」。その後、である→でぁ→ぢゃ、と変化して西日本の末尾助詞「~じゃ」になり、さらに関西で「~や」に変わります。これが東日本では異なった変化をとげて、である→でぁ→「だ」となったのです。「です」の起源は江戸時代です。でござります→でござんす→であんす→でえす→です。当初はまだ丁寧な言葉とは見なされていません。「~ます」はもっと古くて、まゐらする→まする→ます。ですます調もそろそろ飽きてきたので、ここらで心機一転、である・だ調に切り替えてみましょうか。

文豪は現代日本語の成立に大きな役割を果たしたことになっているが、読者諸君は『浮雲』を読んだことがおありだろうか。いやいや読みにくいのなんのって、1ページ目で投げ出すね。とにかく漢字が多すぎ。ことごとくルビがふってあるからいいようなものの、現代日本語とはいっても当時の文豪たちは徹底した漢字主義者だったのだ。ほんの一例に過ぎないが、こんな感じ。弥(いよいよ)、須臾(しばらく)、愛度気ない(あどけない)、放擲る(うっちゃる)、狼狽てて謝罪ッた(あわててあやまった)、失敗ッた、失策ッた(しまった、しくじった)、莞爾(にっこり)、莞爾々々(にこにこ)、…陳奮翰(ちんぷんかん)であろう。吩咐ける(いいつける)というのもあるが、この「吩咐」は西遊記や紅楼夢に出てくる新しい漢語で、今も現役。明治の頃は現代中国語も積極的に取り入れていたのだ。吩咐や麵麭(パン)などは日本に根付かなかったが、紅葉、紅白、などの「紅」は現代中国語と同じ「あか」の意味で使われている。紅白歌合戦の「紅組」は「あかぐみ」。べにぐみ、とは読まない。「紅=あか」は常用外だぞ、NHK。逆に、財政などの「赤字」は大正~昭和初期頃の日本での造語でこのまま中華圏でも使われている。紅字、とはしない。赤十字は「紅十字」だが。参考までに、万葉集では「もみじ」の漢字に「紅葉」は一つだけ。圧倒的に「黄葉」が多い。

 『浮雲』の第1行目はこう始まる。「薔薇の花は頭(かしら)に咲て…」。え?咲て…?「咲いて」あるいは「咲きて」と読むのであらう、…もとい、あろう。旧仮名に感染しそうになるので困る。それはさておき…、送り仮名の大混乱が一応の収束を見せるのはワープロの時代になって情報機器が発展してからのことである。「さいて」と入力して「咲て」には変換しない。「咲いて」としてからわざわざ「い」を消さなければならない。よほどのひねくれ者でない限りそんな面倒なことはしないので、自然と「咲いて」が定着する。戦後の文豪、三島由紀夫も『鏡子の家』の1ページ目に「女二人をそこで落す」と出てくる。突き落とすのではなく「車から降ろす」の意味だが、「おとす」は「落とす」のほか「落す」も変換する。それはなぜか。「送り仮名の付け方」(1973年内閣告示)によると、「読み間違えるおそれのない場合は、…送り仮名を省くことができる」として、落(と)す、暮(ら)す、変(わ)る、聞(こ)える…などが「許容」とされているからである。以前は、落す、暮す、変る、聞える…が正規だったため、これらがそのまま現在も「許容」されている、というわけ。雑誌「暮しの手帖」もタイトルを「暮らし~」に更新しようとはしない。「手帖」も「手帳」と常用漢字に改める気がさらさらない。綾辻行人はデビュー以来ずっと「分る」だったが、ついに「分かる」に替わった。

それにしても文豪の送り仮名は、ひどい。×働らく(〇働く)、×汚ない(〇汚い)、×醜くい(〇醜い)、×考る(〇考える)、×暖い(〇暖かい)、こんなのは「許容」にも当てはまらない。文豪の作品を読むと感染するおそれがあるが、変換はしないので、手書きでない限りこうなる心配はない。もっとすごいのが当て字で、これはまさに漱石が第一人者。話をし様(しよう)、泣き度て(たくて)、言語同断(道断)、八釜しい(やかましい)、非道い(ひどい)…。なかには、出鱈目(でたらめ)、誤魔化す(ごまかす)、矢張(やはり)、など変換できるのもあり、浪漫、月並み、兎に角、沢山…など一般化したものも、とにかくたくさんある。漱石はサンマを「三馬」としたが佐藤春夫が『秋刀魚の歌』を出して、こちらの字が有名になった。漱石はこの詩を見ることなく永眠した。

かつて「文豪」というワープロがあった。咲て、働らく、非道い…と変換しそうで、コワい名前である。でも、そういう「文豪モード」機能のアプリがあったら文学作品の転写・引用にはとても便利だ。ぜひ利用しよう。

大沢ぴかぴ

Pocket
LINEで送る