花樣語言Vol.135ゑびす屋の思ひ出

2018/02/13

子供の頃、近所に「ゑびす屋」という雑貨屋があって、ガキどもはみんな「るびすや」と読んでいました。「えびすや」と言っていたのはわたくし一人だけで、多勢に無勢、でも、たとえ孤立しても真実をつらぬく、けなげな幼年時代でした。(その頃からすでにひねくれていた。)

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旧仮名は戦後から学校で教えなくなりましたが、戦前すでに相当な負担だったはずです。谷崎潤一郎の『細雪』に、小学生の悦子の作文を雪子が直す場面があります。「オカシナ」を「ヲカシナ」に、「タオレ」を「タフレ」に、「シランカオシテヰマス」を「シランカホヲシテヰマス」に直すのですが、「雪子は自分も字引を見ながら」直したのです。女学校を出ている雪子でさえ辞書を見なければわからない、それが旧仮名の実態。ただし雪子のためにも少し援護しておくと、大人になると漢字を使うようになるので、「可笑しな」「倒れ」「知らん顔をして居ます」のような文ばかり読み書きしていると仮名のつづりを忘れてしまうのです。現行の「現代仮名遣い」も部分的に旧仮名の作法を踏襲しているので、「かんずめ」と入力して変換できないなど、相変わらず過去と同じ問題を引きずっています。(缶詰は、かんづめ。)ところで、「います」を「ゐます」と旧仮名に変換できることに今初めて気づきました。IMEは進歩してゐますね。

「ゐ」「ゑ」(片仮名、ヰ、ヱ)は「ワ行のイ」「ワ行のエ」というもので、本来の発音は「ウィ」(wi)と「ウェ」(we)。だいたい鎌倉時代には「い」「え」との発音上の区別がなくなります。ただし江戸時代後期まで「え・ゑ」は「イェ」(ye)という発音だったので、この頃に作られた古い和英辞典の表記に依拠して、円(ヱン)は「Yen」、ヱビスビールは「Yebisu」と書かれます。旧仮名を使い続ける場合、どの語を「ゑ」で書き、どの語を「え」で書くべきなのか、逐一覚えなければなりません。次のようなものが歴史上「ゑ」だった語。こゑ(声)、すゑ(末)、ゑさ(餌)、ともゑ(巴)、ゑむ(笑む)…。同じく「ゐ」は、ゐなか(田舎)、あぢさゐ(アジサイ)、くれなゐ(紅)、くらゐ(位)、しばゐ(芝居)…。お笑いコンビの「よゐこ」は、よくありません。歴史上「良い子」が「ゐ」だったことはないです。(良い子←良き子。)「ニッカウヰスキー」はよくても「ヱヴァンゲリヲン」は無理。あそびで旧仮名を使うのは勝手ですが、度が過ぎると、海外のパチモンの看板にあるような「ヱロゲーム」「見ゐだけ無料」「ロックソロール」「マシサ|ヅ」などと同レベルになります。

崎陽軒の「シウマイ」(焼売)は、初代社長の栃木の方言、などと説明されていますが、実はこれも旧仮名と考えるとうまく行きます。広東語の発音に似ているというだけでなく、旧仮名で「シウ」と「シユウ」(シュウ)では表される漢字の種類が違うのです。シウは「周、収、秋」などで、シユウは「宗、終、衆」など。後者は、広東語や北京語音では鼻音「-ng」で終わる字群です。「焼」は旧仮名でシウではなく「セウ」ですが、広東語で「siu」、北京語でも「shao」と、とにかく「-ng」ではありません。「昇、勝、商、傷」のように広東語で「sing、seung」、北京語で「sheng、shang」と、「-ng」で終わるものが「シヨウ」「シヤウ」のように「3文字」で書かれるのです。旧仮名は、現代の広東語や普通話の勉強にも役立ちます。

「ゑびす」は漢字で書くと「恵比須」。万葉仮名の時代には「ウェ・イェ・エ」の3つは完全に区別されていたので、ウェには「恵」や「廻」があてられ、イェには「江、枝、叡、兄、吉」などがあてられ、そしてエには「衣、依、愛」などが、混同されることなくあてられていました。「ゑ」は「恵」の草書体から作られ、「ヱ」は「衛」の略とされます。「ゑ・ヱ」で書かれた「恵、会、廻、衛」などの呉音は、広東語では「wai、wui」と、現在でも「w-」。北京語では漢音「ケイ、カイ」の「k-」が対応する「h-」。「衛」は別で、「wei」。比叡山や日枝神社に「叡、枝」(イェ)があてられたのは「ひええ」(日が良い)の「ええ」の発音が当時「イェー」だったから。対して、恵方参りや恵方巻の「恵」は発音の統合が起こった後の、新しい当て字。ゑびす様も「衣毘須」のほうが先に出てきます。「恵」(ゑ)は縁起かつぎ。正しくは「えびす」です。混同が始まりかけていた平安時代、早くも「つくえ」を「都久恵」(つくゑ)とするなどの誤記が現れています。

石川五右衛門の十三代目、ルパン三世の相棒の「ゴエモン」はかつて、五右ヱ門、五ヱ門、五右ェ門、などの表記があり、現在は「五エ門」に定着。ところで、「衛」の簡体字は「卫」、これはまさに日本語の旧仮名「ヱ」から取った、といわれています。どうせならドラえもんの中国語名を「铜锣(銅鑼)卫門」とでもしたらどうでしょう。…またつまらぬことを書いてしまった。

大沢ぴかぴ

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