花樣語言Vol.125 辞書にある言葉

2017/09/26

RADWIMPSの野田洋次郎さんが『君の名は。』のために作った曲「スパークル」のオリジナル・バージョンに次のような歌詞があります。「♪辞書にある言葉で出来上がった世界を憎んだ」。彼の作る歌詞はとても詩的で、哲学的。この詩人によると、辞書とはどうやら、あまり好ましくないもののようです。

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「辞書的な意味」といったらどういう意味でしょう。言葉の表面的な意味、辞書に載っている程度の散文的で額面通りの解釈…。辞書にこういう負のイメージがあるのは、まさに、かつての日本の辞書があまりいい出来ではなかったことのあかしです。前回は辞書を随分とこきおろしましたが、今回は、ほめます。最近の辞書は大いに進歩していて、面白いです。辞書が面白くなったことの重要な遠因は、日本語を学ぶ外国人が増えたこと。「あがる」と「のぼる」はどう違うか、のような、日本語のネイティブスピーカーには考えもつかないような疑問に答えてあげなければならない時代になったため、日本語意味論の研究に拍車がかかったのです。

「あがる」と「のぼる」は、どう違うのでしょう。これは辞書作りの話『舟を編む』の小説の中でも引き合いに出されています。「山に登る」という場面で、山に上がる、とは言わず、「血圧が上がる」を、血圧が登る、とは言いません。両者とも「低い方から高い方へ移る」ことを表しつつも、「のぼる」は主にその経過や行程(山の斜面や木の幹など)に意識が行っていて、対して「あがる」のほうは到達点や結果に焦点が当たっている、と分析されるのですが、この「のぼる・あがる」の意味分析を初めておこなった故・柴田武博士は、4人の共同討議で正味6時間かかった、と、そのときの苦労を書き残しています。「ことばの意味の分析は、ときに頭の痛くなるような抽象化の作業で、えらく時間がかかる」。現在は「対比表」を作るのが常識になっていて、「成績が~」は「あがる」が「○」で「のぼる」は「×」、「頭に血が~」は「あがる」は「×」で「のぼる」が「○」、のように「○・×」を付けて例文を図式化します。類義語と対比することによって意味の範囲がしだいに明らかになっていきます。

昔の辞書は、類義語と対比するどころか、ただ類義語を並べて、それを言葉の意味だとしてきました。「うく」を引くと「うかぶ」が載っていて、「うかぶ」を引くと「うく」が載っていたりします。もし、「うく」と「うかぶ」が同じ意味であるなら、入れ替えが可能なはずです。「チームの中でひとり浮いている」「容疑者が浮かんだ」。この「浮く」と「浮かぶ」を入れ替えたらどうなるでしょう。「チームの中でひとり浮かんでいる」。これはきっとシンクロナイズドスイミングのチームで、選手がみんな水中に潜っているのに一人だけ水面に浮かんでいる。「容疑者が浮いた」。容疑者は怪人二十面相かルパン三世で、何らかのトリックを使って空中を浮遊して逃げた。「うかぶ」は表面に現れること、「うく」は底や地面、基盤や母体などから離れること、このように意味分析できます(「水」にこだわる必要はありません)。ともあれ、全く同じ意味の語というのは存在しない、と肝に銘じておくべきです。『舟を編む』にはまた、「右」という語の意味について考える場面があります。「右」とは何か。「右」を説明してみろ。「東を向いたとき、南にあたる方向」「時計の文字盤の、”2”から”5”がある側」「数字の”10″の、”0”の方」。普段、辞書とは無縁の生活をしている読者・映画の観客にとって、この「右」の分析のくだりは脳のいい刺激となったことでしょう。昔の辞書なら、「みぎ」と引くと「左の反対」、「ひだり」と引くと「右の反対」。今これをやったら、きっと、憎まれます。

野田洋次郎さんは『君の名は。』の主題歌「前前前世」で、「前世」を、「ぜんせい」(ゼンセー)ではなく「ぜんせ」と歌っています。「♪ぜんぜんぜんせからずっと~」。歌だからそうなったんだろ、って?いえいえ「前世」は、「ぜんせ」でいいのです。「世紀」の「せい」ではなく、「世界」の「せ」。「ぜんせい」は誤読の慣用化。正しくは「ぜんせ」である旨が大概の辞書で示されているはずです。さらに前は「ぜんぜ」で、これは日本初の近代的国語辞典、明治期の『言海』に載っています。「観世音」や「世阿弥」の「ぜ」。参考までに、明治に読み方が変わった例。希望(本来は、けもう)、図書(同じく、ずしょ)、礼服(らいふく)、自立(じりゅう)、省略(せいりゃく)、治療(じりょう)、懺悔(さんげ)、東京(明治の初期には、とうけい)…。

「前前前世」は、英語バージョンも野田さんご自身の作詞です。「Zenzenzense」。「zensei」ではなく「zense」。これは確信犯(?)ですね。去年の紅白でも、司会に「ぜんぜんぜんせ」と紹介されています。「ぜんせ」は、辞書にある言葉です。

大沢ぴかぴ

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