花樣語言Vol.124 辞書の話

2017/09/12

映画版『舟を編む』は香港で4年前、異例の大ヒットを記録して関係者を驚かせました。2スクリーンのみの限定公開で始まったものの、じわじわ人気を上げて4か月を超えるロングラン上映。4か月といえば、スクリーンの数こそ違いますが『君の名は。』と同じ長さです。観客動員4万人、つまり人口比からすると、70万人動員の日本に匹敵する割合の人たちが映画館に足を運んだことになります。香港ではかつて『NANA』が若者に人気で、あの映画に出ていた松田龍平と宮﨑あおいがお目当てでは、とも考えましたけどね。『深夜食堂』の小林薫とオダギリジョーも出ています。それにしても、こつこつと辞書を編纂する地味な話が香港で人気というのは確かに異例。

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『舟を編む』の香港での題名は『字裡人間』。この「人間」は日本語と違って「人の暮らす世の中、世間」といった意味であることは以前書いた通り。日本で使用頻度の高いこの語は「日本っぽい」と認識されているようで、究極、攻略、爆笑、物語、幽霊、殺人事件、などと同じく日本アイテムの翻訳タイトルなどによく付けられます。『字裡人間』の小説版は『啟航吧! 編舟計畫』、これもおさらいですが「計劃」(計画)を「計畫」と書くのは台湾。台湾で翻訳されたこの本が香港の最寄りの書店に並んだその翌日、全て売り切れました。『啟航吧! 編舟計畫』が『字裡人間』だと知っている熱烈なファンが目ざとく見つけて買ったのですね。参考までに現在香港の書店で目にする「人間」は、太宰治『人間失格』、江戸川乱歩『人間椅子』、バルザック『人間喜劇』(日本でつけられた訳題、中華圏でこのまま使われています)。

「辞書に間違いがあったらどうします?」「辞書を信用しなくなります」。こういう会話が映画版『舟を編む』に出てきますが、日本の辞書がまともになってきたのはつい最近のこと。かつては、笑いと驚きと怒りと呆れ…なしでは見られないひどい代物で(かの『広●苑』も含めて、と言いたいですね)、そういう辞書が高度成長期の出版好景気の時代に量産されていたのです。辞書の初版は出版記念と称して割引きセール、しかしこれは、初版には間違いが多いので安く売りさばいてしまえ、という魂胆。間違いを見つけてはがきに書いて送ると粗品がもらえたので、辞書のアラ探しの達人、粗品稼ぎのハガキ職人(?)というやからもいました(わたしくは、違いますよ)。また、既存の辞書からの孫引きも常態化で、これは現在も、例えば、千ページを超える中国語辞典のうち実に8種類において、「可愛」(かわいい。愛すべき)のところに判で押したように「可愛的祖国」(愛すべき祖国)という例文が載っています。

「花」の意味を「植物の生殖器官」とするのがなぜよくないかというと、まず、これでは植物学の「定義」であって言葉の「意味」ではありません。そして、例えば「つぼみ」との違いは何なのでしょう。同じく「生殖器官」でいいじゃないか、って? ならば、そう言う人は来年のお花見のときに、ぜひ、桜がまだつぼみのうちに「生殖器官」をめでに行っていただきたい。徹夜の場所取りは絶対必要ないことを保証します。多くの人が見たいのは「つぼみ」とは違う「花」なのですから。また、中国のレストランで、水がほしいので筆談で「水」と書いて見せると「お湯」が出てくる、という苦情をよく聞きます。中国語の「水」や英語の「water」は日本語と違って温度の違いを区別せず、すなわち「みず・ゆ」の両方にあたるので、ただ「水」としか書いてない辞書は言葉の意味を正しく説明していないことになります。日本のカボチャは「パンプキン」ではない、ということは最近知られるようになってきました。ハロウィンのおかげかもしれません。原産地であるアメリカの英語で「pumpkin」は皮がオレンジ色のものだけ。緑のカボチャは「squash」。この違いは辞書によって書いてあったり書いてなかったりします。植物学的にどうであれ、アメリカ人にとっては別物。言葉とは、そういうものなのです。

『舟を編む』の原作小説では、「痔」に、「ぢ」というルビがついています。仮名遣いに無頓着な作家は多いです。でもこの字に作者が振り仮名を振ったとは考えにくく、かといって大手出版社がこういう「誤字」をするというのもうなずけません。わざと、なのでしょうか。辞書では、「ぢ」と引いても「痔」は見つかりません。キーボードで「ぢ」と打っても変換しません。「痔」は、「じ」が正しいからです。「ぢ」だと思ってる人が多いのは、痔の薬を江戸時代から売っているという、かの有名な製薬会社の看板の影響。「ぢ」は旧仮名遣いです。誤用でも社会一般に広く定着しているものは載せるべき、という新しい時代の辞書の精神を「ぢ」にも適用すべきかどうか、難しいところですね。かつては香港にもビクトリアハーバーの夜景の中に赤々と輝く横10メートル縦12メートルの巨大な「ぢ」のネオンがあって、10年以上の永きにわたって日本人観光客の目に強烈な印象を焼き付けていました。

辞書と「字」の話のオチが「痔」になってしまって、すみません。

大沢ぴかぴ

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