花樣語言 Vol.119 当用漢字と常用漢字

2017/07/04

推理小説は探偵小説ともいいます。終戦直後の昭和21年に定められた当用漢字の中に「偵」の字がなかったため「推理小説」と改められた、とされますが、日本推理作家協会の前身は昭和22年発足の「探偵作家クラブ」。当用漢字に逆らって「偵」を使っていました。

1850字からなっていた当用漢字表は「使用する漢字の範囲を示したもの」で、これ以外の字は使うな、という漢字制限ですが、表現の自由の名のもと、旧文部省のお達しに従わなかった文化人は少なくなかったのです。昭和56年に当用漢字は常用漢字となり、方針そのものが大きく変わって「漢字使用の目安」という、ゆるいものになります。字数が1945字に増やされて「偵」も常用漢字表入り。「探偵小説」は堂々復活、改名した「推理小説」とあわせて2本立ての呼称ができあがった、というわけ。伊東絹子

ただの「目安」なんだから守らなくてもいい、と思われているかどうかはともかく、現在は表外字もどんどん使われていて、世の流れに追従する形で平成22年の改定では、丼、麺、箸、枕、旦、脇、嵐、柿、鶴、亀、鹿、虎、熊、蜂、などが新たに常用漢字表に加えられ(え…こんな字も常用漢字じゃなかったの、と思うでしょ)、2136字になっています。動物の字が多いのは、かつて当用漢字には「動植物の名称は、かな書きにする」という「注意事項」があって動物の字がもとより少なかったからで、わたくしも小学生のころ「猫」と漢字で書いて叱られたことがあります。「猫」「猿」「蛇」は昭和56年に常用漢字入り。「犬」は昭和21年当初から当用漢字。猫派の人たちからは不公平と思われていたのです。平成の改定で「腎」が加わって「じん臓」を「腎臓」と表記できるようになったのはいいとして、当用漢字の時代に「肝腎」を「肝心」と書きかえてしまっているため、「肝腎」が復活可能となると、こういうところにも2本立てが生じてしまうのです。「臆測」と「憶測」なども同じ。「覚醒剤」の「醒」も平成の改定からなので、それ以前からあった「覚せい剤取締法」は混ぜ書きのまま。目下、法律用語の世界では「覚醒剤」と「覚せい剤」が混剤、いや、混在しています。昭和28年、日本人として初のミス・ユニバース入賞を果たした伊東絹子さんは「八頭身美人」という流行語のもとになったのですが、八頭身か八等身か、という昭和50年代頃まで続いていた論争は現在は収束しているようなので、漢字の「ぶれ」の問題は、ほうっておけばいずれ自然に落ち着くものなのかもしれませんけどね。現在「八頭身」は中華圏にも伝わっていますが、「八等身」のほうは見た記憶がありません。

常用漢字は、方針が変わって字数が増えても、竜→龍、とか、芸→藝、体→體、猫→貓、のような字体の復刻は、まだ一度も行われていません。そもそも日本の略字の大多数は戦前からすでにあったものであり、しかも、竜、猫、体、独、沢、など多くが中国の古典に出てきている字形です。芸術の「芸」は、確かに日本式の略し方で、これは香港でもかなり悪評。著名な漢語学者の布裕民さんなどは、「芸」は「漢字」ではない、「日本字」だ、とまで言い切っています。理由は大体二つ、まず「芸」という字には、日本語音ならば「うん」と読んで植物を表す別の字があるので(女性の名前によく使われています)、「藝」(げい)が「芸」(うん)とかぶるのは好ましくないのです。もうひとつは、何より「藝」の意味を「園藝」や「藝術」の藝たらしめているのは真ん中の「埶」の部分であって、上の草冠と下の「云」は、あとから付けられた添え物で脇役。だから肝心な中身を抜き取ってしまったら、ハンバーガーのパティを抜いて上下のバンズだけ合わせたような代物になってしまうのです。(ハンバーガーの上のバンズを英語で「クラウン」=冠といいます。)

こういうとんでもない略字や大胆な書きかえを採用したのは、日本はいずれ漢字を全廃するという前提(可能性)があったからで、それまでの間の当座のまにあわせが当用漢字、だから形のことなど大して重要ではなかったのです。字の成り立ち無視、中国の漢字との決別(←「訣別」の書きかえ)などをうたって行われた確信犯の漢字破壊作業に対して、語源が無視されてる、とか言っても、しょうがないのですよ。当用漢字時代のレガシーであるトンデモ略字や「書きかえ」を抱えて、日本人は現在、漢字と共存を続けているのだということを忘れずにおくべきです。

当用漢字時代の思い出をもうひとつ。当時は漢字の訓読みもかなり制限されていて、「魚」は音が「ぎょ」で訓は「うお」だけ。「さかな」と読んではいけなかったのです。常用漢字世代のさかなクンならきっと、ギョギョギョ! 当用漢字の見直し、すなわち、日本は漢字を廃止しない、という事実上の決定は昭和41年の中村文部大臣の発言。その後、昭和48年の改定音訓表で「さかな」を含む357という大幅な音訓の増加が実施され、漢字制限の時代はここに幕を閉じます。ちなみに「小豆」(あずき)とか「海女」(あま)という読みもこのとき認められたのです。ちょっと古いけど、じぇじぇじぇ!

大沢ぴかぴ

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