花樣語言 Vol.117 白亜紀の悲劇

2017/06/06

白亜紀の悲劇『世界の中心で、愛をさけぶ』のヒロイン「アキ」は最後の誕生日のときに自分の名前の漢字は「白亜紀の亜紀」だと説明します。新しい生物がたくさん出てきた白亜紀のように栄えますようにと願いを込めて名付けられたのだ、と。けれどもアキは白血病で17歳で死んでしまいます。悲しい、純愛物語。漢語訳の本は香港でも台湾でもいまだに高い人気です。『在世界中心呼喚愛』。

「白亜紀」は、香港や台湾では「白堊紀」と書きます。だから「白堊紀のアキ」は「亜紀」(亞紀)ではないのです。この「白堊→白亜」も日本独自の書きかえによるもの。よって翻訳には、日本では「白堊」を「白亜」(白亞)と書くのだ、という注釈を付けなければならないわけです。この「堊」の場合、問題は更に深刻で、これを「ア」と読むようになったのも日本独自の「慣用」、すなわち読み間違いが定着したもの。「悪」という字は「亜」が使われていても「ア」ではなく「アク」と読むのと同様、「堊」も「ア」ではなく「アク」なのです。広東語でも「亞」[a]に対して「惡」と「堊」は[ɔːk]。簡体字および北京語音では「亚」(yà)と「恶、垩」(è)。アメリカのホワイトハウスは中華圏で「白宮」と呼ばれていますが戦前の日本では「白亜館」、韓国語では現在も「白堊館」と言っていて、「堊」の発音は[ak]です。「白堊紀(ハクアクキ)の亜紀」、これでは日本語圏  外では通用しません。

何年か前に香港のテレビで聞いて、強く印象に残っているセリフがあります。何のドラマだったか、誰が言ったのか、記録しておかなかったことを今でも後悔しているのですが、「日本に行くって? おまえ、日本人より漢字知らないくせに!」…やはり日本人は漢字を知らないと思われているのですね(笑)。日本は戦後、一旦は漢字廃止に向けて舵を取りかけて大幅な漢字制限と簡略化を行ったのですが、その後、漢字を使い続ける方向に進路を戻しています。その頃の迷走が現在まで尾を引いていて、特に中国語(普通話もそうですが特に広東語)や韓国語を習う人は、思わぬところで足を引っ張られるのです。どうして日本人の使う漢字は香港で変に思われるのか。日本はいったい漢字に何をしたのか。中国語(特に広東語)学習者は、昭和31年に当時の国語審議会が出した「同音の漢字による書きかえ」という一覧には是非とも目を通しておくべきです。

到底書ききれる数ではありませんが今回もまた少し列挙すると、放棄(抛棄)、暴露(曝露)、凶器(兇器)、注釈(註釈)、管弦楽(管絃楽)、英知(叡智)、車両(車輛)、包帯(繃帯)、広報(弘報)、骨格(骨骼)、火炎(火焔)、計画(計劃)、玉石混交(玉石混淆)、短編・長編(短篇・長篇)…。使用頻度の低い、抛(拋)、曝、輛、繃、骼、のような字が制限の対象となって別の字に置きかえられ、「抛(ほう)る」と「放つ」、「暴(あば)く・暴れる」と「曝(さら)す」、吉凶の「凶」と兇器・兇暴・兇惡の「兇」、弓の「弦」と楽器の「絃」…、のような書き分けがなくされます。中には、放棄、暴露、管弦樂、など香港で使われているものもあり、加えて台湾から来る出版物の中で、凶暴、火炎、計畫、などを目にしますが、「放物線」は「拋物線(綫)」なので要注意。「拋」と「放」は広東語で「パーウ」と「フォーン」、北京語音なら「pāo」と「fàng」、日本語以外では区別があります。

漢字は日本語にすると同音字が多くなる、という宿命がある以上、責任を旧文部省だけに押し付けることはできません。「書きかえ」の一覧には戦前からすでに使われていたものが結構あるし、「野性」と「野生」など、「書きかえ」られていないのに勝手に書きかえられる例(要するに誤字)は後を絶たないのです。「野性的」と「野生動物」の「性」と「生」も中華圏では同音ではないので、こういうものを間違えると大変、それこそ「日本人は漢字を知らない」と言われてしまいます。しかし、どの言語でも、人が誤字を書くのは基本的に字のほうに問題がある、とわたくしは考えます。漢字は日本語話者にとって負担が大き過ぎるのです。つくづく思うのですが、「私立」と「市立」や、「輸送船」と「油槽船」が同音になるなど、日本語漢字音って、むしろ、面白いですね。「油槽船」は「書きかえ」にな
らって日本新聞協会が定めた新聞用語集で「油送船」と書きかえられた経緯があります(現在は一般に「タンカー」と言っています)。同様に、義捐金→義援金、一攫千金→一獲千金、鳥瞰図→鳥観図、波瀾万丈→波乱万丈、激昂→激高、落伍→落後、恰好→格好、抽籤→抽選…。こういう流れを受けて各種学術用語も、肩胛骨→肩甲骨、濫獲→乱獲、饒舌→冗舌、辮髪→弁髪、撰集→選集…。同音字がよくもこれだけあったものだと感心いたします。

ジュラ紀から続く生物の繁栄を引き継いだ白亜紀は、末期に恐竜が絶滅するなど、多くの生物が死に絶えた時代でもあります。そのことをアキのご両親は知らなかったのでしょうか。白亜紀の亜紀(堊紀?)という命名は、占ったらきっと「凶」と出ますよ。

大沢ぴかぴ

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