花樣方言 孤悲の物語

2017/03/14

孤悲映画や本などのキャッチコピーは、瞬時に人の心をとらえる(キャッチする)という効力はあっても、冷静に考えてみればあまり深い意味がない、というものが多いです。そんな中にあって、新海誠監督の『言の葉の庭』のキャッチコピーは異彩を放っていました。

“愛”よりも昔、
“孤悲(こい)”のものがたり。

CineFixが「映画史上最も美しいアニメTOP10」の1位に選んだのがこの映画ですが、興行収入は1億円台(次作の『君の名は。』は半年間で243億円)。やはりこのコピーでは、一般大衆の心をとらえることはできなかったのでしょうか。新海監督は小説版のあとがきにこう書いています。「千三百年以上も昔の、万葉時代の「孤悲(恋)」という表記に納得してしまう人は、きっと現代にもたくさんいるのだろうと思う」。その通り、たくさんいるのです。この「孤悲」は万葉集に出てくる言葉の中で、ずば抜けて人気があります。結局、『言の葉の庭』は通好みの作品、『君の名は。』は新海ワールドの大衆向けバージョン、という違いにつきるのでしょう。

「こひ」(恋)は万葉集の中に200回ぐらい出てきます。大部分は漢語訓読の「戀」ですが、「孤悲」という表記が29あるそうです。基本的に万葉仮名は漢字を使った「当て字」であり、漢字本来の意味は無視されます。「こひ」にはほかに「古非」があり、動詞形の「こふ」(570回出てきます)には「故布」があります。また、現代版で「愛し」と書かれる「かなし」は「可奈之」や「可奈思」。これらは全く意味のない当て字。恋=孤悲(孤独で悲しい)というロマンチックな視覚効果にひかれて万葉仮名の世界に入ると、失望することになります。「吾(あ)が恋はまさかも愛し 草枕 多胡の入野の 奥も愛しも」。安我古非波麻左香毛可奈思 久佐麻久良 多胡能伊利野乃 於久母可奈思母。暴走族の教養レベルにもみたない当て字の水準。漢字をこてこての万葉モードで使うと、こうなるのです。

「愛」(あい)という概念は日本ではとても新しくて、近代になってからようやく、西洋文学やキリスト教の「love」に相当する訳語として定着します。だから「“愛”よりも昔、“孤悲(こい)”のものがたり」なのです。「愛」は漢語であり、外来の概念。対して「こい」は、万葉の昔からあった日本古来の感情です。ただし「恋ふ」(こう)という動詞は現代まで伝わることなく消えてしまって、「恋する」という、「名詞+する」の形に置き換わっています。大阪弁などで使う「ぬくい」「ぬくめる」が東京の言葉にはなく、「ぬくもり」という名詞形だけが伝わっているのと似ています(ちなみに京都では「ぬくい」は品のない言葉とみなされることがあります)。ところで、ハ行の子音は古代日本語では[p]なので、「こひ」の本来の発音は[kopi]です。現代日本語で[p]音は、語頭で[h]に変わり、そして語中で、「日本」(にっぽん)のように「っ」の後と、「乾杯」(かんぱい)のように「ん」の後ろにのみ現れます。この法則に当てはまらないのは、外来語か、あるいは擬態語(ピカピカ、パタパタなど)。これらの[p]音は古代日本語のなごりであり、光はピカリとひかるから「ひかり」、旗はパタパタはためくから「はた」なのです。だからピコ太郎はまさに「彦太郎」。海彦山彦は、ウミピコ、ヤマピコ。万葉の恋に憧れるのなら、恋=コピ、という音感にも慣れておいたほうが、いいのかも。

万葉歌人は鴨が大好きで(鴨料理ではありませんよ)、実に多くの鴨が「池」や「葦(あし)」と共に詠まれています。そして「恋ひわたるかも」「聞こえ来ぬかも」などの「かも」にも、よく「鴨」の字が当てられています。ふざけてるの鴨、と返したくなりますが、「見つるかも」→「見鶴鴨」と来るとこれはもう「座布団1枚!」の境地です。応用型の極めつけは九九(掛け算)シリーズで、「十六」と書いて「しし」と読ませたり(四四十六)、「くくる」などの「くく」を「八十一」と書いたりしています(九九八十一)。

天武天皇の「吉野の盟約」の際に詠まれたとされる歌。淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三。「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 芳野よく見よ よき人よく見」。「良し」と「見る」と「人」だけでできているこの歌、ペンとアッポーとパイナッポーだけでできているあの歌と何の違いがありましょう。耳で楽しむ歌の典型ですが、頭韻を踏みまくってる「良し」はなんと、淑、良、吉、好、芳、四来、と、孤悲に、もとい、鯉に、いや、故意に、多くの漢字で書き分けられていて、目で楽しむ歌にもなっているのです。新海誠作品の主要キャラの名前にも頭韻法が用いられています。雪野百香里(ゆきの・ゆかり)、立花瀧(たちばな・たき)、宮水三葉(みやみず・みつは)。万葉の遊び心は、現代のクリエーターたちにも、受け継がれています。

大沢ぴかぴ

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